記者(57)の母(83)が認知症と診断されたのは3年ほど前です。症状は徐々に進みました。札幌市内の一軒家で父(86)との2人暮らしは難しくなり、今は介護老人保健施設で生活しています。父は1人暮らしになりました。母の心身の変化や家族の対応、時々のさまざまな失敗が読者にも将来、役立つのではないかとの思いから、記者が体験を毎月1回、振り返っています。6回目は、徐々にコミュニケーションを取るのが難しくなってきた母と現実をなかなか受け止められない私の葛藤がテーマです。(くらし報道部デジタル委員 升田一憲)

 

もう一度話したい~認知症の母の記録~① 限界が近づいていた<デジタル発>

 

 母に認知症の症状が目立ち始めた2020年夏。高齢の両親の2人暮らしが心配になってきたため、私と妹は交代で定期的に実家を訪ね、様子を見守ることにした。

介護老人保健施設のフロアで面会する母(左)と私

 

記者(57)の母(83)が認知症と診断されたのは3年ほど前です。症状は徐々に進みました。札幌市内の一軒家で父(86)との2人暮らしは難しくなり、今は介護老人保健施設で生活しています。父は1人暮らしになりました。母の心身の変化や家族の対応、時々のさまざまな失敗が読者にも将来、役立つのではないかとの思いから、記者が体験を毎月1回、振り返っています。6回目は、徐々にコミュニケーションを取るのが難しくなってきた母と現実をなかなか受け止められない私の葛藤がテーマです。(くらし報道部デジタル委員 升田一憲)

 

もう一度話したい~認知症の母の記録~① 限界が近づいていた<デジタル発>

 

 母に認知症の症状が目立ち始めた2020年夏。高齢の両親の2人暮らしが心配になってきたため、私と妹は交代で定期的に実家を訪ね、様子を見守ることにした。

 

私は平日、仕事があるため、札幌市西区にある実家に行くのはもっぱら、土曜日か日曜日のどちらかだった。同じ西区の自宅のマンションからほど近く、車だと20分ほどの距離だ。
 実家の玄関のドアを開け、居間に入ると、母は大抵、掃除や洗濯など日常のこまごまとした雑務をこなしていた。ソファに腰をおろし、テーブルの上に新聞が広げられていることもあった。長年の習慣で母は新聞を楽しみにしていた。ただ、読むというよりぼんやりと眺めているという感じだろうか。一面の天気図をよく見ていた。
 私「母さん、散歩に行こう。外に出ると気持ちがいいよ」
 母「散歩? えっ、行くの?」
 母は呼び掛けに細い目を見開き、きょとんとした表情を示した。言葉によるやりとりが困難なため、母の肩に手を置き、人さし指を玄関の方に何度か向けて、「行こう。行こう」というしぐさで促すとようやく腰を上げてくれた。母はなぜ、私が外に連れだそうとするのか、よく理解できていない様子だった。それでも、私の誘いを特段嫌がることなく、すぐに従ってくれた。どちらかというと温厚な性格が幸いしたのかもしれない。父も散歩に誘うが、「俺はいい。2人で行っておいで」と言うのが常だった。
記事後半では、母と散歩して話すうちに飛び出した、思いもよらない言葉を紹介します

 家に閉じこもってばかりだと足腰がどうしても弱ってしまう。認知症になると自発的に運動をしたり、栄養のある食べ物を積極的に取らなくなったりするという恐れが多分にあった。散歩が最も簡単で、健康の維持に手っ取り早いと思った。父は足の調子が少し悪く、ほんのちょっとの距離でも歩くのを嫌がる。2人で一緒に外に出掛けてくれればいいが、父にはあまり負担を掛けられない。さらに父と四六時中一緒だと、刺激も足りなくなっているという思いもあった。

 

散歩に行くコースは特に決めておらず、風の吹くまま気の向くままという感じだった。玄関を出て、最初に道路の右に歩き出したら、翌週は左方向に歩く。その次の週は真っすぐに歩き出すという感じだ。時間は30分から1時間ほどで、公園に立ち寄ってベンチに腰掛ける。休みを入れながらゆったりと歩いた。

 たまには違う景色も見せた方がいいと思い、母を車に乗せ、実家から車で10分ほどで行ける宮丘(みやのおか)公園や五天山公園といった総合公園に連れて行くこともあった。これらの公園はいずれも敷地面積が数十ヘクタールと広大で、起伏に富んだ散策コースもある。散歩をするにはもってこいの場所だった。

 

 

私のお気に入りの公園の一つ、宮丘公園は北1条・宮の沢通沿に広がり、山の中腹にある。駐車場から広場へ行くには、長い階段を上らなければいけない。健常者でも「随分と高いなあ」と思うほどの階段だが、母は当初、ここを休むことなく私と一気に上がることができた。

 公園を所管する西区土木センターに聞くと、階段は全部で97段もあるという。斜度は階段部分で48度。踊り場部分も含めると平均42度だそうだ。

 

階段を上りきると野球場がすっぽりと入るほどの広場になっている。そこを通り抜け、ベンチに腰掛け、いったんひと休みするのが常だった。

 「天気がいいから、親子連れやカップルが来ているね」

 事前に用意しておいた缶コーヒーをお互いに飲みながら私が話し掛けると、母は笑ってごまかした。私はできるだけゆっくりと語り掛けたつもりだったが、言葉の意味を理解できないのだ。私の声は母の耳元に確実に届いているはずなのに、瞬時に理解できない。例えば、外国人に英語で話し掛けられ、知った単語は一つか二つはあっても、文全体の意味を理解できない―。そんな状態なのだろうか、などと想像する。

 「私、ここがダメになっちゃったの」。母に話し掛けると、頬から口元を左右の手で何度もなでるようにさすり、このフレーズをよく発するようになった。

 母の問わず語りが始まった。

 「私、本当にダメになっちゃって。パッ、パッ、パッと言われても分かんないの。あのね、もうきょうだいもみんな死んでるし…。もう生きていても仕方がないと思うの。何もいいことないし、本当に死んだ方がいいかなあと思っているの」

 日頃、そんなことを考えていたのか。予期せぬ発言で、ショックだった。母は自分に話し掛けられた言葉の意味を理解しづらくなっていた。しかし、自分の頭に浮かんだことを言葉にするのはややしばらくの期間できた。今振り返ると、いや応もなく、認知機能の衰えを自覚していたのは間違いない。葛藤があり、苦しかった時期なのだろう。

 私は言下に「そんなことないよ」と否定したが、この言葉は母には伝わらなかったと思う。私は母に寄りそうすべを知らず、得たいの知れない悩みや苦悩を取り除くことができなかった。母のどことなく寂しそうな表情が忘れられない。

 

私は重苦しい雰囲気を変えたかった。母を立たせ、またぷらぷらと歩き始めた。この広場を少し下ってしばらく歩くと札幌の市街地を一望できる一角がある。ここからの眺めも私は好きだ。何度も連れてきているが、母は「初めて来た」と言った。前回訪れた時の記憶はないのだろう。ちょうど崖下にある手稲宮丘小学校の校舎も、車が行き交う札樽自動車道、札幌市内の街並みも実に新鮮に映るようだった。

 母との散歩中、会話らしい会話というのは特段ない。というより、母自身からは言葉や単語が出てこない。一方、私が話し掛けると、母は「困ったなあ。弱ったなあ」という表情をする。母は必死に何を言っているのか考えるのだが、いくら考えてももちろん分からない。まゆをひそめるか、笑ってごまかすかのどちらかになる。

 会話は本来、お互いの言葉のキャッチボールみたいなものだろう。行ったり来たりとリズムよく続いている間は実に心地よい気持ちになる。会話をしているという感覚すらなくなる。しかし、言葉が一方通行になると途端に息苦しくなる。どことなくぎくしゃくしてしっくりこないという感じだろうか。

 

別のある日のこと。散歩の途中、道路沿いの庭によく整えられた花壇を母が見つけた。ふらっふらっと近づいて花々をのぞき込んだ。表情を見ると、「いいなあ」という感じが一瞬で読み取れた。美しいもの、きれいなものを見ると、心をやはり揺さぶられるのかと思った。

 「この花、きれいだね」と言うと、母は「うん、うん」とうなずいた。しかし、「花がきれいだ」という意味だと理解し、「うん、そうだ」と返答したかどうかはあやしかった。呼び掛けに、とりあえず「うん」という言葉で応じたのかもしれない。おそらく後者で、無意識に反応したのだろう。

 母は認知症で脳の病気だから、仕方がないことは十分に分かっている。しかし、なぜ母だったのだろう。よりによって、という気持ちがぬぐえなかった。腑(ふ)に落ちず、いつも心の中にもやもやしたものが漂っている。考えても仕方がないのに、意識がどうしてもそこに行き、常にぐるぐると頭の中で回っている状態とでも言ったらいいだろうか。

 やはり、人は何かを失って初めて、尊さに気付くものだと思う。私にとっては母との何げない会話、やりとりだった。それが、日を追うことに失われていった。今になって貴重だったと実感する。

 

 

母は、認知症の人の中で最も多いタイプ、アルツハイマー型認知症ではなかった。診察に当たった札幌西孝仁会クリニック(札幌市西区)の柏木基医師(60)=現・札幌孝仁会記念病院診療部長=からは、前頭側頭(ぜんとうそくとう)型認知症、または嗜銀顆粒性(しぎんかりゅうせい)認知症の可能性が高いと、説明を受けていた。私は柏木医師の話を思い出した。

 「お母さんの脳をMRI(磁気共鳴画像診断)で調べてみると、左側の側頭葉がやせているんですよね。例えて言えば、ヘルペス脳炎にかかったような、同じような痕が見られたんです。がっちりやられた、障害を受けたという感じでした。一方、(理性をつかさどる)前頭葉は損傷を受けていませんでした」

 側頭葉は言葉の記憶や言語の理解をつかさどる領域だ。ここが損傷されると、簡単な言葉を聞いても理解できない、意味が分からなくなる「感覚失語」や「失語」という症状が出てくるのだという。

 私は柏木医師の「がっちり」という言葉が、いつまでも耳元に残った。なぜ「がっちり」萎縮したのだろうか。ヘルペス脳炎を発症すると、発熱や頭痛などの症状が出て、意識障害やけいれん、幻覚などを引き起こすようだ。父や妹にあらためて聞いてみたが、母がヘルペス脳炎のような病気、症状になったことはなかった。

 

もし母が幼少時に脳に損傷を受けていれば、物心が付いたころから、物覚えが悪かったり、学校の勉強ができなかったりということがあるはずだ。だが、母に記憶が悪いという印象は特段なかった。高校を卒業し、民間企業に勤めた後に父と見合い結婚し、私と妹を育て上げた。私が小学生の頃は家計を助けるため、食肉加工の工場でパート勤めもしていた。ごく普通の主婦だった。さらに、母はかなり手が込んだ裁縫も得意だった。80歳前後になって側頭葉に著しい損傷を受けた形にはなったが、なぜそんなことになったのか。原因は結局、分からないままだ。

 

 幾分、気分的な落ち込みを私は感じることもあった。自宅を出て、車で実家に向かい、母を誘って歩く。近所の道路、生活道路はほぼ歩き尽くしている。どこを曲がっても知った景色が広がるため、どうしても新鮮味がなくなってしまう。さらに、1週間や2週間だと母にさほど大きな変化はみられないが、数カ月単位で母の様子を振り返ると、確実にできないことが増えたと実感する。厳しい現実を突き付けられるような感じだった。

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母が裁縫をする際、使っていた道具

 

散歩の時に履いていた母のスニーカー

 

例えば散歩を始めた当初、母はスニーカーの靴ひもをほどき、上手に結ぶことができた。しかし、靴を履くときに気付くと靴ひもをほどかず、片足を靴の中に無理やり入れようとしていたことがあった。当然、足先が突っかかってうまく履けない。母は「あれっ」という感じで、さらに無理に押し込もうとする。私は母の足元にかがみ、いったん上がりかまちに座るように伝える。しかし、母には理解できない。そこで私は母の脇に手をやり、抱えて腰を落とそうとする。突然の振るまいに今度は母が混乱する。いきなり何をするのか、と思ったのだろう。母は「なにっ、なにっ」と少し抵抗した。ようやく腰を下ろしてもらい、私が靴ひもを結んであげた。「ああ、またできないことが増えたな」と寂しい気持ちになった。
 以前は散歩の途中でコンビニを見かけると、母はよく私にお菓子や飲み物を買ってあげるから、「ちょっと寄っていこう」というしぐさをした。甘いものが好きな私に食べさせたいという気持ちからだろう。ありがたい心遣いだった。しかし、そのうちコンビニの目立つ看板、建物を見ても何も反応しなくなった。そのコンビニを通ると、その変化を思い出した。

 

母と2人で歩いていると「こんなことをしていて意味があるのだろうか」と思う時もあった。認知機能が徐々に下降線をくだり、症状が全然好転しないのは、私にとって過度なストレスだった。「これから母は一体、どうなるのだろう」という不安がのしかってくる。当時は、新型コロナウイルスの感染が流行し、人との接触が極端に制限された時期だった。それでも1週間に1度でも外に連れ出し、体力を付けさせるのも大事だと思い直した。運動は、ストレス解消にも疲労回復にもつながるとよく言われる。私はとりつかれたように散歩を続けた。

 認知機能が劣る一方、母の頑固なこだわりを不思議に思うことがあった。

 

散歩を終え、実家に戻ってソファで少し横になって休んでいると、今度は母が私の肩をトントンとたたく。居間の隣にある和室から私の古い服を持ち出し、「これ、まだ着られる。持っていって」と言い出すのだ。傍らにいた父が「そんなものに了解を得る必要はない。全部捨ててしまえ」と言うが、母はおかまいなしだ。私がのらりくらりとかわし、曖昧なままにしていると、今後は外に出て物置に誘う。ここには大学時代に使った本や、新聞社に入って初期の頃のスクラップ、資料、本などが段ボール箱に入れられ、置かれていた。
 段ボール箱の中をのぞくと、大学時代に使った「手形・小切手法」や「刑事訴訟法」など法学の基本書が出てきた。いずれも三十数年前に発行されたもので、もう読むこともないものばかりだ。母はそれらを整理、処分してほしいようだった。「(自分の自宅に)持っていってほしい」と言った。しかし、自宅のマンションにこれらの本を収容するスペースはもはやない。不用意に持って行けば、妻にも叱られるだろう。かといって捨てるのはしのびない。
 膨大な書籍類を整理するとなると相当な時間が掛かる。とても1日や2日で終えられるものではない。当然、自分がやらなければいけないのだが、私は先送りしていた。「母さん、勘弁してくれ」と心の中で思った。「次に来た時に、ちゃんと整理するからね」と母をなだめ、そそくさと実家を後にするのだった。
 認知症の本で調べると、前頭側頭型認知症の場合、同じことを繰り返したり、何かに固執する傾向は決して珍しくない、などと書かれている。母にもその症状が出ていたようだった。

 

私は取材を通してさまざまな資料をかき集めてきた。道新に入って29年、取材ノートは軽く300冊を超える。交わした名刺は1枚も処分していない。インタビュー時に録音したカセットテープも大量に残っている。執筆したら「はい、終わり」と捨てる人の方が多いだろうが、私はすべてため込む性分だった。
 新聞記事で書いた内容は取材したことのほんの一部で、エピソードなどはあまり字になっていない。競走馬の馬産地である静内支局時代には、かなり力を入れて馬の取材を続けた。関連資料は段ボール箱で10箱くらいになる。私はいつか、ノートを丹念に読み返し、「本にしてみたい」という野心があった。週末にでも執筆しようと思ったが、現実はそう甘くない。資料を見ることすらできていない。結果、家のかなりのスペースを占領してしまうのだった。
 実家にも大量に残る「資料の処分問題」はその後も何ら解決せず、母との無用の応酬は続いた。しかし、1年ほどして母は何も言わなくなった。関心すら示さなくなった。私はホッとすると同時に、無性に寂しさも感じた。(くらし報道部デジタル委員 升田一憲)

 毎月1回、月末に配信しています。次回は、母の残していた日記や手紙、家計簿に記載されたメモを通して、心の軌跡をたどってみます。併せて記事へのご意見、ご感想を募集しています。名前と連絡先を書いてkurashi@hokkaido-np.co.jpへお寄せください。

 升田一憲(ますだ・かずのり) 1966年9月、小樽市生まれ。大学卒業後、3年勤めた銀行を辞め、1994年に北海道新聞社に入社。帯広、室蘭、東京などでの勤務を経て2020年3月から、本社くらし報道部。シニアのセカンドライフや高齢期の課題、お墓や葬儀などのテーマを中心に取材している。

2023年11月25日 10:00北海道新聞どうしん電子版より転載

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