ツイッターに影響を受けてわかったけど、
私の生きる上での優先順位の中で、「心」が低いところにあるとわかった。
自分の心も、他人の心も、優先順位が低い。
優先順位の高いものは、
常識やったり、道徳やったり、
周りの人間に好かれるかどうか、
周りの人間に認められるかどうか、
周りから排除されないかどうか、
他人の評価や、
作業効率。
1番は他人からの評価かな。
「心」は生きる上で、重要としてこなかった。
それはやっぱり親との関係の中でも同じ。
親との関係の中でこの優先順位が出来上がった。
どれだけ親にとって都合の「良い子」でいられるか、
好かれるか、怒らせないか、気を引けるか。
それが全て。
その中で「心」って概念というか、存在?が無くなっていった。
私は親の心なんて理解不能やったからとにかく私の方を向いてくれるという行動自体に注目していた。
対象者の「心」に目を向け無くなった。
飴をくれるという「優しさ」ではなく、その行為自体に安心するようになった。
心と行動の繋がりがわからなくなった。
受けた子育てが機械的やったのかなと思う。
そもそも「心」のない行為を受けてきたのかもしれない。
ご飯を食べさせてくれる。
服を着させてくれる。
やけど、注目や声かけなどが無い、
もしくは、面倒くさがったり急かしたり優しさのない、声かけがあった。
でもそれじゃあ、心は存在するか。
私はその伝わってくる親の心が辛くて、心の存在を自分で消したのかもしれへんな。
「行動と心」はセットやと思うんやけど、
心を取り払って、セットじゃなくなった。
物をもらったら、ありがとうと言う。
怒られたら、ごめんなさいと言う。
誕生日おめでとうと言われたら、ありがとうと言う。
信号を受け取って、信号で返すみたいな感じ。
◯が来たら△
☆が来たら□
で、その中に心の存在は自分は感じなかった。
感じないようにしていた場合もある。
例えば、馬鹿にされたら笑う。
反射的に体が動くようになった。
まさに機械になった。
やから
心って意識しないとあるって思えへん。
機械になってしまえる。
そして思ってないことをつらつらと言ってしまえる。
相手の気をひくためなら。気に入られるためなら。
簡単に心を作ってしまえる。
好かれるセリフはこれ、印象の良い言葉はこれって、心とは関係なく頭に浮かんで組み立てる。
まさに機械。
やから私にとって人の心って、不確かな、信じられないもの。ほんまにあるの?って疑ってしまう。
でも、自分の心を大事にするようになったからこそ?おーさんに申し訳ないと思えた?
いや、どうやろう、、
でも、心の大事さは前より具体的にわかる。
無視されることの辛さ、蔑ろにされる辛さをちゃんと自分で認めて、親にも怒りを持てているから。
やからこそ、おーさんに申し訳ないと思えた。
これは、以前の、「全て私が悪い、私はダメ人間だ」思考からくる申し訳なさとは全く違うものだ。
やとすると、「心」が優先順位の中で上の方になってきたということかな。
自分も他人も「心」があり、
それを蔑ろにしてはいけないんだ
ということがやっとわかってきたのかも。
ただ、わかったものの、
他人の心を蔑ろにしないための精神的余裕がない時もあるし、
他人を心のない機械としてみる認識を修正するのは時間がかかるよなあ。
ずーっと機械のように生きてきて、
周りの人間も機械のように見てきて、
情緒的かかわりじゃなく、
信号のやりとりみたいなかかわりで生きてきた。
やから人と接することに楽しさとか充実感を持てへんのかな。
わかり合うとか信頼するとか。
他人と信号のやりとりで生きてきた自分にとって、
複雑で柔らかい心のやりとりって、めっちゃ面倒くさいし、予測不可能で不安。
精神力使う。
人を傷つける癖満載な自分やから余計に。
まぁその癖を、人生をかけるくらい長いスパンで修正していくしかないか。
心か。
私まだまだ心を使えてない。
全然まだまだ自分として生きれてないのかも。
まだまだこれから自分次第で生まれ変わっていけるのかも。
甘えたり、弱さを出したり、頼ったりする、その時の相手の反応、どう返ってくるか、そして関係はどうなるか、
みたいなところに人と接する面白さがあるのかな。
そしたらやっぱり、心をある程度開く、自分から近寄ってみる、仕掛けてみることが必要で、
相手がそうしてきた時、警戒して心を閉ざし離れるんじゃなく、
いい意味でなあなあな、結論を出さないコミュニケーションができればええのかな。
この人は合わない!悪や!危険や!と
思って離れることも大事。
でも、侵入されることを防げる技術と自信、自己肯定感があれば、そこまで怯えず離れず、なあなあな付き合いができるのかなと思った。
今の自分にはそれは難しいけど、
そういう付き合い方が今後できるようになればええなと思った。