今年のMLBでは審判によるボール・ストライクの判定の補助として、ABSというデジタル機器で、補助的に判定できるようにした。そして投手・捕手そして打者は素早く審判の判定に異議を述べることで、ABSが判定をするシステムとなった。

 

テレビ中継を見ていると、異議が出されると、審判はすぐさまABSシステムでその投球を再現する。そしてわずかでもストライクゾーンを通っていればストライク又は外れていればボールと素早く判定する。

 

視聴していてもその速さには感動を覚えるほどで、しかも本当にかするような微妙なボールの軌跡を再現する。なるほどこれなら審判がボールと判定するのも無理はないかと思いながらも、その神業の投球に感心したりする。

 

しかし現在ABSはボールがベースの上をどのような軌跡で通過したかの判定をするだけで、ファールチップやハーフスィングの判定はない。だが6月7日のドジャースとエンゼルスのディゲームの審判の判定は酷かった。

 

ABSのチャレンジは各チーム2度失敗するまでできるが、6回もチャレンジされて1度も失敗がなかったのである。これは6度の審判の判定がすべて間違いだったことを意味し、何よりファールチップして捕手のミットに収まったものをボールとした。

 

更に現在非常に制度の良くなったカメラで捉えられた映像では、ボール2個分外れた珠をストライク判定していた。もとより審判も人間である限り、微妙な軌跡を見極められないことはあるだろうし、選手もそれは審判の個性と見ていた部分もある。

 

今日の審判は外角に甘いとか、内角はシビアだとか言うことで、ただそれが一貫したものであれば、受け入れていたのである。ABSはそれでも誤審を可能な限り防ごうとしたMLB側の努力の現れだったろうし、2回というチャレンジ制限にも理解できる。

 

私はすべて公平にすべきだから、すべてABSのようなデジタル機器による判定にすべきとは直ちには思わない。人の行うゲームに人が関与することがまだ人間的だと思うし、何より機械がプレーボールを宣言するのはあまりにも味気ない。

 

だから当面ABS判定で誤審の割合が高い審判をスコア化し、成績査定をしてみてはどうかと思う。それは現在のAIなら速やかに実施できるだろう。

天皇・皇后両陛下は6月13日~26日にかけてオランダとベルギー両国を双方からの招待に応じて訪問される。日本とオランダは17世紀初頭のオランダ東インド会社を根城としたオランダの世界戦略の中で交流が始まり、鎖国時代もそれは続いた。

 

オランダは当時独立のためスペインに対抗するために欧州内で戦っており、漸く地歩を固めた時代であった。スペインはキリスト教の布教を通じて、アジア各国への進出を果たしており、オランダはその事情を当時の徳川幕府に西洋唯一の窓口となった。

 

だから日本は鎖国時代も「蘭学」を通して西洋事情を吸収し、そこから欧州先進諸国の情報を得ていたのである。そして多くの碩学がオランダ語を通じて日本の幕末・明治期の有力な政治家等になり我が国の近代化に貢献したのである。

 

しかし一方オランダの東インド(現インドネシア)の植民地はブロック経済の下、日本からの輸入に制限を課した。そして決定的なのはナチス・ドイツがオランダを攻撃し日本がそのドイツと同盟を結んだことにより、オランダとは敵対国となった。

 

そして石油を求めてインドネシアに日本が侵攻しオランダ人を駆逐し、第二次大戦で敗退した後もインドネシアの独立に日本は手を貸した。長年の植民地を追われただけでなく、独立によって利権を失ったオランダは日本を強く憎むようになった。

 

欧州各国のアジア植民地政策は、求めるものが香辛料や地下資源と国によってバラバラだが、これを収奪するだけのものであった。一方日本はこの支配側の欧州各国と戦うことで、結果的にそれぞれの国を独立させる契機になっていった。

 

だからパラオに典型が見えるように、植民地にも日本臣民として教育をし、医療施設やインフラ整備も行った。その結果日本が占領した多くの国が、結果として日本に親近感を得ることとなって、かつての宗主国である欧州より日本が慕われたのである。

 

近代の日蘭は特に東南アジアの支配を巡って対立したが、一つはその長い交流関係と今は価値観を共通する意味で相携える仲となった。皇室は長く続く皇室の歴史を同じくし、雅子皇后陛下の病気療養にも深く関与し回復に力を貸してくれた。

 

オランダの東南アジア支配の妨げとなったことへの恨みはあるが、それは過酷な植民地支配の裏返しでもあり、それらは今後乗り越えていくべきものであろう。

給付付き税額控除の制度を煮詰めるための協議するとして設けられた国民会議だが、その実務部門を担う議論が変質している。まずその制度設計のための機関として二年間の食料品消費税を0とすることに異論を唱えている。

 

その反対の論拠は先の投稿でしたレジの改修が間に合わないというものだが、官僚としておかしいことも述べた。しかしこの実務者会議での議論のおかしいところは、給付付き税額控除という制度改革自体を否定しようということである。

 

その理由は消費税0化の時と同じで、制度改革を実施するのに給付は早急に可能だが税額控除には時間がかかるというものである。しかし国民会議はその時間のかかる制度設計をするためのもので、それをしない理由はない。

 

しかも議論は変質し消費税を下げるよりもその分給付することのほうが早くできると言い、減税を帳消しにしようとする。しかも給付付き税額控除の方も給付だけでいいのではないかと言い出したのである。

 

これも本末転倒で、給付はそもそも税金を払えない低所得者のためで、一定の所得ある者に税額を控除即ち減税しようとすることを否定している。つまりこれらの議論に共通しているのは、税を下げるのではなく給付で凌ごうとするものである。

 

予算的には同じでも給付をするためには自治体を含め様々な手順が必要で、効果は減殺される。しかし財務省の官僚としては「給付してやる」と言った恩恵的な施策となって、あまねく国民に効果のある減税より、抵抗がないのであろう。

 

挙句に消費税を減税するにしても、0ではなく1%なら実施時期は早くできると言い、その1%は給付に回しても良いと言う。これらを通じて分かるのは何としても減税をやめさせたい又は減殺させたいという、財務省の執念にも似た抵抗である。

 

高市政権としては2月に圧倒的な支持を受けて、しかも選挙の際約束したことでもあって、この抵抗を打ち破って欲しい。政治家が実務を含めて全てをやることは出来ないが、官僚は政治家が約束してできた政権を支えることである。

 

よく言われることであるが、出来ない理由を探るより、「どうやったらできるか」を考えるのが役人としてなすべきことである。減税で景気が良くなったら、今まで言っていたことの嘘がバレて困ると本当に思っているんだろうか。

今国会で自由民主党と日本維新の会との共同提案による議員立法として、国旗損壊罪を新設することとした。法案は「人を不快にさせ又は嫌悪を覚える方法で」「公然と損壊除去又は汚染する」行為をすれば、2年までの拘禁又は20万円以下の罰金を課すとした。

 

この刑罰はずいぶん軽いという感じだが、外国国旗の時と同じものでそれとのバランスを取ったものだとされている。自国の国旗を毀損した場合には、外国国旗よりも重い刑を科する例も外国ではあるそうだが、我が国法案はそうなっていない。

 

この動きは少なくとも最低限自国国旗に対する敬意を表す意味で、評価さてるものではあるが、これにも反対する議員はいる。その代表格は自民党の岩屋議員であるが、同氏は過去に高市総理が自民党の部会に提案した際も反対したらしい。

 

反対の理由は「立法事実がない」ということらしいが、その意味は法で掣肘するほどの必要性がないと意味だそうである。そしてここで持ち出されるのは「表現の自由」を制限することになり、国民の権利を侵害するということである。

 

表現の自由と言うが「人を不快にさせ、嫌悪を催す」行為で、敢えて国旗を毀損したり汚すことを禁止して何が悪いのか。とこれに反対する議員の気が知れない。

 

我が国の国旗の扱いは、現に名古屋で行われたトリエンタールにおいて、不当な扱いを受けた実例もある。それと国旗を巡って国会質問もされた事例では、NHKが放送で中国やロシアの国旗の下に我が国の国旗を掲出しあたかも我が国を属国のように扱った例がある。

 

我が国の公共放送と自認し、しかも血税を多額に投入して支援を受けているはずのNHKは平然と対等並列に配置すべき国旗を上下に配置したのである。国際儀礼(プロトコル)を知らないはずもないNHKですら我が国国旗を貶めるのである。

 

国旗、国歌は我が国の象徴であって、様々な国際大会などで、栄誉を受けたときに掲揚され歌われる。そして多くの日本国民はその栄誉を受けたときに誇りを覚え、それを見たものもそれを祝うものである。

 

それを敢えて傷つけ、汚すものを処断する法はなんとしても成立させて欲しい。

この本はかつて映画を観たとして投稿した同名の映画の原作本であるが、映画とは違った面白さがあった小説だった。無論主題は菊之助のあだ討ちそのものだが、それがどのような人と、どのように行われたかがよく分かり、先に読むべきだった。

 

映画はまさに巷の伝説となったあだ討ちの、まさに芝居のような場面から始まるが、小説は木戸芸人一八の口上から始まる。そこにあだ討ちの主役菊之助と同藩の者と名乗る武士(総一郎)が現れ、あだ討ちの仔細を教えてほしいというのは映画と同じ。

 

しかし小説では、一八がこの森田座での木戸芸人となるまでのいきさつを細々と聞いていく。そして一八が父親の名も素性も知らない吉原の女郎の子であった事情が語られ、幾多の有為転変をへて木戸芸人となったかが知れる。

 

同じように映画でもあだ討ちのための稽古をつけたという殺陣師相良与三郎も昔語りをさせられる。御家人の三男だった与三郎が何故武士を捨て、芝居小屋に来たかが語られ、菊之助との経緯も明かされる。

 

映画と小説では印象が少し違うのが女形で衣装係の二代目芳澤ほたるだが、彼にも多くの秘密があり、小説ではそれが分かる。印象が違うというのは小説では映画で演じた高橋和也がスッとした役者だからである。

 

小道具方久蔵は、さらに深い事情があり、映画では表現されない深い傷と過去を背負っていた。久蔵は映画でもそうだが、小説でもあだ討ちのための鍵となる小道具を作り菊之助のために尽くすのである。

 

映画では渡辺謙がやっていた篠田金次という「筋書き」は今で言えば脚本家だが、小説では菊之助の父母と、奇縁があって知っている。そして謎解きは小説では菊之助本人がしてしまうが、あだ討ちの脚本は篠田の作である。

 

実際のあだ討ちを、まさに芝居のようにやってしまうというこの小説の面白さは、映画という場で十分生かされているだろう。たしかに小説を読んでから映画を観たほうが楽しめるから、順序が逆になったのは悔しい気がしている。

 

木挽町のあだ討ち 

今年2月南鳥島のEEZ内の深海6000mからレアアース泥を組み上げることに成功したというニュースがあった。そこには放射性物質などがない極めてクリーンな資源と言うべきものであったが、それを我が国で精錬し実用に供せるように出来た。

 

これまで我が国はレアアースの精錬は中国任せとしており、そのためいざとなればその供給を止めると言った嫌がらせをされた。しかしその資源そのものの採取と精錬ができる見通しがついたことで、中国に頼らなくてもいいという道筋ができた。

 

もともとレアアースという資源そのものは世界中に分布して存在しており、問題は精錬にあったのである。特に放射性物質の処理に困難があり、中国はその困難性を環境や人の健康を無視する形で克服し、安価な製品としてきた。

 

現に採掘現場や精錬する地域では、処理のための強酸性廃液を無処理で垂れ流し、放射線物質を管理せぬまま放出してきた。そのため土壌汚染を引き起こし、扱う人や近隣住民に健康被害を引き起こしてきた。

 

言い換えれば中国では人の健康被害や環境悪化の犠牲と引き換えにレアアースを製品化し、世界に売ってきた。日本の今回の取組は本土から遠く離れた深海からの資源採取という困難を乗り越え、自前で製品化する試みに成功したのである。

 

レアアースそのものは17種もの希少金属等に選り分けられるものだが、それぞれの使用料は極めて少ない。だから使用することは必須だが、大量になければならないというものではなく、それを組み込んだ製品への構成比も大きくはない。

 

そこで片山財務大臣はG7各国に対し、環境悪化や人道的被害を無視して製品化されるようなレアアースは使うべきではないと主張した。そしてこの主張は受け入れられて真っ当なコストの掛かるものを調達すべきという共同の同意を勝ち取った。

 

たしかに日本のレアアースはコスト高ではあるが、それは環境的人道的にも受け入れられる手法によったものである。したがって日本産のレアアースは、先進国の国際強調によって、商用化できる見通しはついているとも言える。

 

南鳥島付近での中国からの干渉や、更には妨害等もありうるが、需要が生まれればコストを下げる可能性はあり、日本が中国の軛から脱することはできる。

日経平均の高値更新が続き日本の景気は上向きのように見えるが、一方で日銀は利上げの機会を狙っているようにも見える。外的環境から見た日本の先行き等はどうなるかを多くの識者の意見を見ながら考えてみたい。

 

米国では国防力を充実し最強の軍隊にすると言っており、そのためには日本の精緻な工業製品が不可欠である。日本自身が国防に力を入れることそして従来五類型にとどまっていた防衛整備品の友好国への輸出が増えこの分野は活況となるであろう。

 

ある意味ではこれは特需と言って良い状況で野党が反対しているが、日本の防衛装備品の輸出は歓迎されている。そういう意味で成長分野への積極的投資を行うという高市政権がブレなければ日本の景気はまだまだ余力があると言って良い。

 

ただ一方で日銀が金利を上げたがっている様子が気にかかり、経済アナリストは金利を上げることを盛んに薦めている。食料品の値上がりが家計を圧迫しているようにマスコミは報じ、これも金利を上げる理由にしている。

 

日本は従来から物価が2%上昇させることが景気を持続的に維持するに必要だとしてきたが、この2%が金利を上げるきっかけになっている。しかし物価と言っても欧米が基準にしている物価は変動の大きい食料品とエネルギーを除いている。

 

そうするとこれを「コアコアの物価指数」と言い、我が国では1.1%くらいの水準でしかなく、2%は遠い状態である。そもそも2%と言っても金利で抑え込むのは4%程度までの幅を持ってそれから対策を講じるのが正しく、まだその時機ではない。

 

日銀は利上げを望む理由は、金融機関の顔色を見ているからで、日銀は民間では付していない当座預金に金利を払っている。その水準は公定歩合と同じ水準であり、金利を上げることは金融機関への支援となっているのである。

 

しかし金利水準を上げれば銀行の貸し出し金利も上がり、一般も企業も投資意欲を削ぐから景気にはマイナスである。また金利を上げたいと主張する論者は円高誘導論者でもあるが、これは輸出企業つまりエクセレント企業に打撃を与えることになる。

 

そういう意味で高市政権は金利水準を留め置き、積極経済を推進すると言った公約どおりであれば日本の景気は当分拡大するのではないかと予想する。

6月19日の読売新聞朝刊にある「編集手帳」で、境界人という言葉を引用し、「どこにも属さない人」と言う意味で使った。これは今回栃木県で起こった所謂「トクリュウ」と呼ばれる指示役がアルバイト感覚で雇った者に犯罪を侵させる若者を言った。

 

つまり一人前の大人でなく、頑是無い子供というわけでもなく、そういう不安定な青少年を利用した犯罪だと言う。今回のような重大犯罪の場合、仮に指示を受けたからと言って、判断能力が無い年齢でもないから最大無期拘禁刑の可能性はある。

 

そういう刑を課される可能性が今後はそういう犯罪に向かわせる予防効果にはなるかも知れないと言いつつ懸念を言った。たしかに世間知らずの青少年ならば、それほど重い罪になるとは知らなかったとこれから言いそうな言い訳である。

 

つまりこの記事は不安定な青少年を利用する卑劣を非難しながら、そういう青少年に重い刑を課すことへのためらいを感じた。しかしもし年若で成年前だからとして、温情をかけた判決や処遇を求めたら日本人としての教育の敗退だと思う。

 

私共は生まれてまもなくから、「人に迷惑を掛けない」ことが一人前の人になることと教えられて育った。そして人のものを盗み、まして傷つけることは最大の迷惑でその極致である殺すことなど論外と教えられてきた。

 

つまり真っ当な教育をされていれば、16歳の子供で成年未満のものであっても、そういう犯罪に身を置くことは無い。刑法は14歳未満の行為は罰しないと定め15歳を責任能力の下限としているが、そこが是非善悪を弁別する限度としているのである。

 

確かに中学生や高校生の頃の年齢の子供が精神的に不安定であることは認めるが、物事の善し悪しは理解できる。だからどんなに賢しらな子であっても、そこに一定の線を引き、刑罰に関する可否を法定したのである。

 

無論個別的な事情は当然認められるべきだが、「境界人」と言った概念を敢えて持ち込んで評論することに違和感を覚える。かつて私は飛行機の備品を盗んで持ち帰った高校生よりそれを見過ごした航空会社の管理責任を問うた新聞記事を批判した。

 

無論管理責任はあるが、その前の盗むという行為に非難しない手はないからである。妙に主客転倒させてはならないのではないか。

スターウォーズの最新作というので、観たがこの映画は来年にも公開される新作の伏線ともなるものなのだろうか。マンダロリアンは最強のフルフェイスのヘルメットに隠れた宇宙最強の賞金稼ぎで、約束をしたことを忠実に実行してきた。

 

その親子にも似た相棒グローグーは、フォースも使えるがまだ幼さが残り、戦力に離れないが優しい相棒である。帝国軍の残党探しを進める中で、情報を得るために悪のハント兄弟から依頼を受け救出に向かうが、救出された者は帰りたがらない。

 

マンダロリアンがその意を汲むと悪の兄弟からなじられ、醜悪な怪獣の攻撃を受け危うい状況に追いやられる。それを必死の思いで助けようとするグローグーとの息もつけない激しい命をかけたバトルがある。

 

最後は新共和国の援護によって脱出できるが、最後は来年公開される新しい映画へとつながると言ったことで有料の予告編のようである。ただグローグーは愛おしいキャラクターとして描かれており、先行きが楽しみではある。

 

この映画単独で観ると自体のストーリー性とかが乏しいように感じられ、ひょっとしたら次のシリーズの伏線なのかも知れないと思わせる。また映画では初めてだが、マンダロリアンはネットの中では既知のものだそうだ。

 

だから本来この映画を観る人は本来そのネットの映像を下敷きにしなければこの映画の本質は理解できないのかも知れない。

 

https://www.youtube.com/watch?v=v8hJq5lqFLI

沖縄を修学旅行で訪れていた、同志社国際高校生徒が「平和学習」の一環で辺野古沖に行き船が転覆し生徒と船頭二人が亡くなった。内閣府沖縄総合事務局はこの事故で亡くなった船長を「海上運送法違反」容疑で告発する意向だと伝えられた。

 

海上運送法では有償・無償を問わず他人のために人を運送する事業を行うものは事業届をするよう義務付けているが、それを怠ったというのである。これで漸く裁判という場で責任が明らかにされる見通しがついた。

 

またここの事件では海上保安庁が人身事故に関して、業務上過失致死傷罪でも捜査をしており、これもまた事件化されるであろう。もともと波浪注意報が出るなか、出航し、この事故が起きたわけであり、こういう校外学習をした学校の責任もある。

 

またこうした学習の実態は家族にもすべてが伝えられていたわけではなく、その点でも問題点と指摘もされていた。海上運送法の規定は知床であった遊覧船による事故で多数の乗客が死亡したことを受け、厳格化されたものである。

 

この事故を巡ってはこの事件に対するメディアの扱いも国会でも質問がなされ、知床事件や他の事件との比較で報道の少なさが指摘された。船長を匿名にするなどの民放の報道姿勢だけではなく、NHKにもその姿勢が問われたものである。

 

辺野古事件の運送主体が辺野古への米軍基地移転反対の団体が行っており、沖縄警察の動きも鈍く、政治的な負いが報道の動きを遅くした。つまり辺野古市反対運動への忖度があったのではないかとの観測がされていたのである。

 

もともと私学助成を受け、維新の政策を入れた高校無償化の実施対象でもある高校で、こういう学習が認められるのかという視点もある。教育基本法では政治活動の自由も教えるがそれは特定の主義思想に偏ってはならぬことも定めている。

 

そういう論点が数多く指摘される教育現場では極めて需要なはずの事件が何故かなおざりにしか報道されなかった。もしこのような論点に及べば同志社国際高校は私学の助成の範囲から切り離されるという問題もあったかも知れない。

 

単に業者側の会場運送法と言った狭い範囲の議論ではなく、このような校外学習の必要性と正当性も論議の対象とされるべきであろう。