「遊水地でのできごと」 | 風に吹かれて マイ・ヴォイス

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なりゆきまかせに出会った話題とイメージで、「世の中コンナモンダ」の生態系をのんびり探検しています。これはそのときどきの、ささやかな標本箱。

 らしい「書き出し」もなく書きはじめさせていただく。

 

 ある50代の男が、平日の午後、車で20分ほどのところにある遊水地に出かけた。かれはその日は仕事が代休で休みだった。ここのところ2か月ほど忙しかった。この遊水地は、家族連れなどで、以前はよく来たところだった。人工池のまわりを散歩する人やジョギングする人、ビオトープに集う鳥たちを撮るためにやたらと長い胴を付けた重そうなカメラを肩に吊るしたり手に持ったりした人などが行き来していた。

 それでも遊水地にはさすがに人間より多い鳥たちがいて楽しませてくれる。この日は、枯れた葦などのつくる影や池の広い水面に、サギ類、カモ類、それにかれの好きなオオバンなどが、自分流にエサをとっていた。葦や草のところには小さな鳥が群れて飛び交っている。

 池のまわりのりっぱに整備された道路は自転車道路にもなっていて、流行のヘルメットをかぶり、体にぴったりの衣服を付けた若い男女が格好良く走っている。いかにも健康そうだ。

 かれは別世界のような平和な世界だなと、本気でそう考えた。そして自分もそんなふうに考えるトシになったかと苦笑し、世界のあちこちで起こっている戦争や紛争も他人事ではないが、最近、自分のまわりにも家族のまわりにもいろいろなことがあったことを思い出した。過去形ではなく、思い出したというようなヒトゴトっぽいものでもなく、気持ちの内に閉めていた蓋の一部が不意にずるっとはずれたという感じで不快だった。すぐにも振り払いたかった。

 かれは道路と池の柵の間のところどころに設けられた茶色に塗られたベンチに腰をかけた。ベンチは3つあったがだれも使っていなかった。太陽は遠くの山や町並みの、角度にして15度くらい上にあった。まだ少しは暖かい。久々にのんびりしよう。

 すると、座っていたかれの右足の近くに、白い羽が落ちてきた。空を見上げたが何も見えない。薄い雲が少しあるだけだ。そういえばさっき、右のほうの上空に白いサギが飛んでいたような気がした。

 コサギというには大きい体つきだったのでダイサギかな、チュウサギはこの辺にはあまりいなかったな、などと思いながら、かれはそれをひろった。思ったより大きい羽だった。

 眠くなっていたので、あそび心でその羽を横にして両目のうえにのせて、かぶっていた野球帽のふちでそれを押さえていたら、有機物とも無機物ともつかない、少し埃っぽいようなふしぎなにおいがした。オレの知らないことがいっぱいあると、かれは思った。そして、うとうとした。

 昔むかし、目が見えなくなった王様が、医者だったか魔法使いだったかに孔雀の羽を見えなくなった目に当てると目は元どおり見えるようになるといわれて、三人の息子に命じて孔雀の羽を探しにやったというイタリア民話がなんとなくうかんだ。それは目の話ではなく人間関係の話だったが。

 かれはこのベンチで見たことの半分は夢だったようだと思いながら、ゆっくりと目を開けた。目の上にあった羽は片側が鼻の位置までずり落ちていた。それを服のポケットにしまった。

 すぐに頭がはっきりして、あたりがもう薄暗くなっていることに気がついた。景色の輪郭がぼんやりかすんできている。白い羽は孔雀の羽と違って目を見にくくするのかなとおもしろがって考えながらかれは、着ていたジャンパーの袖で両目をこすって、まばたきを二三回した。ヨーシ大丈夫だ。

 両手を上げ大きく伸びをしながら、ズボンの尻を払って腰を上げようとしたかれは、自分でも思いもよらなかったが、鳥は重いものを背負っていないのでいいなと思った。鳥だけではなく、ふわふわと軽いものはみなうらやましいと思った。雲も葉っぱも。

 そう思うのがシャクで、彼は自分は重くしっかりした人生を歩んできたという思いのほうに頭を切り替えようと思ったが、せっかく閉めていた気持ちの蓋が開きそうな気がして、寝た子を起こすことはないと、駐車場に向かってきっぱりと歩き出した。

 車に近づいたとき、足もとに黄色いテニスボールが転がってきた。見ると、少し遠くからラケットをもった黒っぽい服の男の子が走ってきた。かれはそのボールを右手に持ちかえて、顔ははっきり見えなかったがその男の子に向かって思い切り投げた。うまく投げたと思った。

 ボールは空中で見えなくなった。