キリスト教では悪魔(サタン)が神に挑戦し歯向かい、それに従う様に人間がなったと言う。
(サタンは神に歯向かう前は天使の一人だった)

仏教では「‘欲’が悪い」と言う。
(全て欲を無くせば死ぬので、言葉遣いは重要とはいつも思わされはする所になってはいる)
人間の欲望の赴くままにそれに従うのではなく、神の言う事に気を払い、気を付け、素直にそれに従う事を模索し実行する生き方をせよ、という事らしい。
社会がもう無理な中でも、それは個人の意志で出来るのだろうか?
個人の精一杯の所迄は可能なのだろう。

例えば、どうあがいても環境破壊を推し進めている中からは出られません。
放射能の流出は止められません。
自信や自信に関わる範囲は良くても、直ぐ周りには不幸や犯罪や絶望が広がっている訳にもなります。
戦争の中を生き延びたとしましても、亡くなった罪無き人々はもう還りはしません。

ただ、姿勢を良い方向へ常に向ける事は可能なのでしょう。そしてその良し悪しは必ず常時反映さます。
全ての人々がそういう方向へ意識を運べば、世の中全体が良くなる日は来るでしょう。

(スト-カ-その他完全にイカれて人間から離れつつ人間社会にどさくさに紛れて宙に浮きながら漂っている類は、人のそんな気持ちや努力にも割り込み破壊し続けて来ます。)


行動

リアル タイムで「精神の在り方」が常に問われているこの世での‘生’。一切妥協は許されないのは、閻魔大王の審判と同じになります。
気付けているか、気付く事からさえ完全に離れ切っているのかは、個体次第です。
気付けていても仕方は有りません、行動していなければ意味はなくなっています。
それの邪魔は社会の在り方によりいつもされているのですが、カルトの類は能動的にしています。
(完全にイカれ、人ではなくなっているキチガイなので。人間性は初めから無い様です。)

常日頃の行動を良い方向へ持って行こうとしても、目覚め意志を固めても。その時点での自分の在り様(立ち位置)が簡単に聞き入れるとは限らなくなってはいるはずになります。
マザ- テレサという人の言葉には
「思考は言葉に 言葉は行動に 行動は習慣に 習慣は人格に」
などという様なのが有りましたが、その通りにはなります。

それを認めるのは、必要な事とはなるはずになります。



(続⇒)