タロットリーディングを行う者、また反対に、タロットリーディングを行ってもらいたい者、都合、前者をタロットリーダー、後者をクライアントと述べておきますが、ここで両者のテーマとなるものが、いわゆる「問題事」と言えます。
クライアントが何か自分に対する悩みとか、進展させたいことを持ち込んで、タロットで見てもらいたく相談するわけですが、いずれにしても、クライアントにとっては、現状のままで困る、何とかしたい思っている「問題」を抱えているわけです。
その「問題」をタロットリーダーも扱うために、両者は問題をテーマにしている、主題としていることになります。
ここで、改めて「問題」とは何か? ということを考えてみましょう。
問題とは本人が気になっていることであり、それは結局、本人がそう感じているものであって、もしかすると、まったく同じ状況であっても、他の人には気にならない、問題とは思わないかもしれません。
とすると、人類全員が問題と思えるようなことは存在するのでしょうか? 地球や人類が滅亡するということになれば、それに近いものと言えるかもしれませんが、たとえ地球がなくなってしまうようなことがあるとしても、それを問題と感じない人もいそうです。
こうなると究極的には、問題とは、人それぞれ個人の中にあるものだと想像できます。まあ、それでも、集団規模での共通問題認識というのはあると考えられますが。
一応、ここまでの話として、問題とは主観であると仮定します。
では、タロットの相談をするクライアントの問題も主観であると考えられますので、タロットリーダーのやるべきことは、タロットの象徴を読み解き、クライアントの主観で問題と思っていることの見方を修正すればよいわけです。
クライアントの問題主観を、タロットリーダーとタロットの客観性で補正した、クライアントが問題と考えない主観に変換するという作業と言ってもいいでしょう。
幸いなことに、タロットというのは物理的で実際に存在する、紙に絵が印刷されたカードです。見えない精神体ではありません。(精神的なことに関わるとしても)
これの何が幸いかと言いますと、実際にあるので、気のせいにすることはできないということです。つまり、客観性を持つのです。
そしてクライアントの問題に対して、出てきたカードは、偶然かもしれませんが(タロット世界観では偶然はありませんが)、出したカードはもう出ているので、その場にカードがないということは言えなくなります。
もちろん、カード解釈はタロットリーダーの主観ですから、タロットに客観性はないという意見もありえます。
ただ、さきほども述べたように、カードが目の前にあること、特定のカードが出ていることは事実なので、クライアントもタロットリーダーも客観的に見ることが可能です。
先述しように、タロットリーディングの作業は、クライアントの問題と感じたり、そう思考していたりする主観を、タロットリーダー側の客観で、クライアントの主観を修正することだとお話しました。
しかしタロットリーダー自身は主観ですから、偏りもあります。そこにカードという物理的客観的存在が媒介することで、タロットリーダーの主観性に客観性が付与されることで、クライアントの問題主観への対抗がやりやすくなります。
タロットリーダーも主観でタロットを見て(読んで)しまいますが、カードも何もない状態で相談を受けるより、カードには、ある種、普遍的で抽象度の高い象徴(シンボル)がありますので、それが客観性(類型的に人間全体にあてはまるようなことだから)を担保することにもなるのです。
タロットリーダー側からすれば、クライアント(の視点・感じ方)は客観になります。
両者の間で、主観と客観が入れ替わり、共同作業的に問題を解釈・変換していくためには、タロットカードが、わけがわからないものよりも、クライアントにとって眺めやすいもの、意味がわからなくても、感覚的に想像したり、イメージしたりできるものが望ましいのです。(タロットリーダー側から見て、クライアント側の意見・見方が客観になるため)
マルセイユタロットは、元型的なシンボルパターンを表していると考えられており(ユング派では、マルセイユタロットを扱っていました)、そういう意味てば最適なタロットカードかと考えられます。
ところで、「問題」と言えば「解決」とセットとされるのが現代の、特にビジネス的思考の特徴です。
ただ、タロットリーディングにおける問題というテーマは、同じように解決とセットで見るのかは、一概にはそうとは言えないと考えます。
この問題と解決のセット思考・システム、言い換えれば問題は必ず解決しないといけない(解決されるべき、放置しない)という思いが、私たちの枠や縛りになっていることもあるように思います。
問題は解決とセットであるというのなら、逆から考えれば、解決したいから問題が出るとも言えます。
変な話ですが、解決したい病(びょう)みたいなものにかかってしまっている人も存在します。その理由は様々ですが、典型的なのは、自分の価値を高めたいがために(その裏には自己否定、劣等感と優越感、支配欲、不足欠落思考などあり)、そういう病になっているというものです。
問題が解決できるワタシ・オレはすごい、かっこいい、すばらしい・・・だからこそ存在価値がある、楽しい、生きる価値が出る、みたいな感じでしょうか。
解決できる自分を演出するには、問題が出てくれないと困るわけで、しかもどんどん高度なもの、あるいは、自分が得意とする慣れた問題(専門分野)が現れることになるでしょう。
私はカモワン流から入った口ですが、カモワン流には問題カード・解決カードというテクニックがあります。しかし、これを文字通りにとって単純にやっていくと、ますます問題を増やすことになりかねません。(このテクニックには、深い洞察と背景を知っておくことが重要です)
問題を解決するのではない発想も、これからの時代は、タロットリーダーに必要でしょう。
それには主観と客観を入れ替えつつ、タロットを占いではなく、本当に象徴として扱う方法と、タロット自体はマルセイユタロットが適していると思えます。