タロットの煌めき マルセイユタロット活用術

タロットの煌めき マルセイユタロット活用術

伝統的なマルセイユタロットを使っての、自分と人のために活かせる知識と方法をお伝えしています。

明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

さて新年にあたり、タロットを引くこと、タロットからのメッセージを引き出すことは、いつもの時期より一般的に多いと思います。

 

占いでは、今年はどんな年になるのかといった問いで、タロットを引くパターンが見られます。

 

占いに関しては、エンターテイメント的に楽しむ感じで(どなたかの占ったメッセージを)見たり、(タロットを持ち、ある程度意味がわかる人は)実際にカードを自分で引いたりするとよいかと思います。

 

さらに、占いとは別の切り口になりますと、自己実現や個人としての成功、充実した年にするための方法論、精神論(心構え)としてカードを引き、それを参考にする場合もあります。

 

そのケースでは、問いが結構重要になり、どんな年にしたいか、どのような達成を自分にもたらせたいのか、どんな気持ちで過ごせるようになればよいのか、どんな環境でありたいのかなど、具体的にイメージしたり、言語化したりしてタロットを展開すると、タロットの絵の象徴の力によって、今の自分の思考を超えたものがイメージで現れることもあれば、たとえ何か思い浮かばなくても、心にタロットの絵が刻まれ、一年の指針・方向性として、自分が望んだものに向かうよう、潜在的な設定がなされることもあります。(潜在的な設定を有効的にさせるには、ある程度の儀式が必要となりますが)

 

ただ、私が最近思うのは、占いにしろ、自己実現的な活用にしろ、一年スパンで見ていくのには、今はあまりに激動の時代なこともあり、無理があるのではないかというところです。

 

タロットはよく言われるように、短期的、長くて三か月のスパンの有効性があると信じられているところがありますが、これは個人的には誤解があるように思います。

 

そのことは今日は説明しません。しかし、三か月くらいという根拠もあるにはあり、しかも先述したように、このところの時流の変化の激しさを見れば、三か月期間説はむしろ今こそ適切なものになってきているのではないかと思うくらいです。(それでも、タロットは長期的に見ることも可能です)

 

とにかく、私自身は、たとえ1年をタロットで見るにしても、少なくとも前期・後期(つもり6カ月スパン)、もう少し刻んで、4か月、または四半期程度(3か月)に区切って、タロットを展開したほうがよいように思います。

 

そして、問いは「どんな年になるのか」といった受け身、運命任せのようなものではなく、「どんな年にしたいのか」「そのためにはどうすればよいのか」と、最低でも2段構えの問いで臨み、能動的に自分で考え、動くことを示唆させるよう、カード展開を行ったほうが望ましく思います。

 

しかし、それでさえ、少し違う感じがします。

 

激動のため、つい外側のこと、環境や政治、景気、世界の行く末、個人としての経済、人間関係、仕事、健康など気にしてしまうでしょうが、逆に、こういう時代だからこそ、自分の内的な調整、統合、融合に向かったほうが、結果的には近道になるように思います。

 

なぜなら、すべては関連、連動しており、それも内から外へと関係性が影響しているからです。

 

女性性・男性性で言えば、外側の男性性から働きかけても、一見変化したように見えても、それは一時的なものであり、内側の女性性からの調和により、外側の男性性が導かれて、全体的に整うことが、マルセイユタロットからも感じられます。

 

とは言え、結局、自分の中の女性性・男性性のバランス、統合・融合が必要で、どちらがいいとか悪いとかではなく、自然の流れや法則からして、女性性の調整から始まるみたいなことを言っています。

 

ところが、外側(現象)の世界では、男性性から現れるようになっていますので、男性が一見優位のように見えることでも、それは自然の理に適っていることもあるので注意です。

 

例えば、四字熟語の「老若男女」の順番にも意味があるということです。男性や年長者、長男、長女からしなければならないこともあり、そういう自然の摂理があるわけです。

 

話を戻しますが、1年を思う、年始のタロットの展開(タロットを引いて指針やメッセージ得ること)には、今の時代としては、自分に何を回復させるのか、自己の内なる調整のためには、何が必要かといったテーマでタロットを活用するとよいかと思います。

 

これは心理的な方法と言えばそうなのですが、厳密には心理だけの分野に留まりません。(全体性・霊的な分野にも関わる)

 

それも、1年全体として見ながらも、細かく、3か月おきくらいには見直すこともしてみるという話です。

 

注意としては、自分を変えようとか、何かを切り捨てようとか、何かを得ないといけないとか、そんな風に思ったり、問いをしたりしないことです。

 

変えようと思うのは、今の自分に嫌なことがある、足りないものがあると考えているからで、それは、反転して見ると、トータルな自分から分離させているものや抑圧したりしている部分があるという証拠でもあります。

 

変える、得るではなく、むしろ捨てている自分、隠している自分、見たくない自分の部分を見つめ、話し合い、慰め、癒し、一緒にいることが普通であるい状態を取り戻す必要があるのです。

 

別に新たに知識とかモノとかを得るのはいけないと言っているのではありません。

 

自分の意識構造がいびつなままで、もっと求めよう、運をよくしよう、自分を変えようと思っても、土台自体がアンバランスで崩れかかっているので、いくら上乗せしても、不安や恐怖がなくならず、飢餓感も増し、満足や安心は得られないということなのです。

 

ですから、取り組むのは外ではなく、内であることを認識して、この1年の初めに、タロットで見てみることを提案いたします。

 

最後に、内を見るといってもよくわからないという人に、内にこだわらない形のほかの方法で、段階的な見方(タロットの読み方)を提示しておきます。

 

まず、今年をテーマにしたカードを1枚引きします。使うのは大アルカナがよいでしょう。

 

その時のカードは、テーマに関して抽象度で言えば一番高いものです。

 

だから細かな意味(こんな年だとか、こんなことをするべきとか)で見ず、ただ1枚全体の雰囲気を感じます。

 

次に、そこから少し具体化します。(カードは最初に引いた1枚で、続けて見ます)

 

方法としては、国単位、組織単位、グループ単位くらいの範疇で見ます。

 

さらに、もっと具体化して、自分の身の回りの人物、環境、モノをカードと照らし合わせて想像します。

 

最後に、自分自身に重ねて、カードの意味も入れたい人は入れて、自分がそのカードの人物になって行っていること、あるいは成し遂げていること、忘れてしまっていた自分の一部、または感情、思い、気持ちなどをイメージして感じます。

 

それがどんなものであっても否定せず、受け入れます。

 

何か気づきがあればそれでよいですし、何もなければないで、それはそれでOKです。

 

全体から個別(自分)へ、抽象から具体へと進めるうちに何か出て来ることは多いです。

 

実はこのように、自分を見ようとするだけでも、自分の内側に意識を向けることになるので、何らかの統合・融合への働きかけ・きっかけとなり、その意味のほうが大きいのです。

 

皆様にとって、よい年(一般的な意味の良し悪しではなく、自己の回復、成長という意味)であることを祈念いたし、年初の記事とさせていただきます。

 

世間では、一般的に自立することが求められます。

 

自立や独立を象徴するようなカードは、マルセイユタロットにおいてもあります。

 

特に、「皇帝」とか「戦車」などのカードは特徴的かもしれませんし、名前から誤解されがちですが、「悪魔」も一種の強烈な独立性・自立性を表している言えましょう。また、高度で霊的な自立の意味では、「神の家」もあげられます。

 

ただ一方でカードは、複数以上の人物や動物たちが描かれていたり、単独の人物でも、絵の内容をよく見ると、持ち物など、ふたつのもの、三つのもの、四つのものが描写されたりしているように、図像の中に複合性が見られます。

 

ところで人は、厳密な意味で誰も一人だけでは生きていけず、この現実世界では、何億もの人で構成され、それぞれが個性を持ち、役割をもっていると考えられます。

 

マルセイユタロットにおいても、その最終到達地(人間の総合的完成境地、すなわち宇宙とも表現できます)と言える「世界」のカードでさえも、四つの生き物に囲まれ、真ん中の人物も、何か手に持っているのです。

 

これは結局、人間が現実レベルにおいても、霊的レベルのような高次の状態へシフトしていったとしても、多くの何かに支えられ、また自らが支え、すべては関係や協同性において構成されているのではないかという暗示のようにも思えてきます。

 

私たちが肉体をもって現実世界で生きているとしても、真の意味で単独の独立・自立はあり得ず、自分は一人で生きていると思っていても、ほかの人間、生き物、モノなどと必ず関係していて、“独立風”の様相を見せている(思い込んでいる)だけに過ぎないと言えます。

 

では自立・独立は幻想なのか、必要ないのかと言えば、そうでもないのがこの現実次元の話です。

 

いつまでも親や人に頼って生きていれば、皆が幼児になって、社会が成り立ちません。そうならないよう、人はやはり、ある程度の独立・自立を果たすようプログラムされているとも考えられます。

 

それは別の言葉で言えば「成長」で、経験・知識の習得と拡大とも言えます。

 

ですが、先程言ったように、本当は関係性(支え・支えられ)によって、自立や独立が生まれているので、それは意識する必要もあるでしょう。

 

そうしないと、傲慢・尊大(万能主義)になったり、反対に依存の激しい人物となってしまったりするからです。

 

自分は自分として自我をきちんと確立させながら、できることとできないことは分別し、自他の役割を応分に、適切に遂行して行けるのが理想でしょう。

 

人によっては、他人を頼ったり、信用したりすることをしなくなり、信じられるのは自分自身のみとなって、何でも一人でやろうとしてしまう方がいます。

 

これは適切な関係性が周囲とできていないからで、究極的には自分自身との関係に問題があり、自分を信頼しているようでしていない、自らへの欠乏感・不信感から出ているとも言えますが、とにかく、よい意味での依存ができないのがこういうタイプの人となります。

 

この場合、自分が今自分として存在しているのは、あらゆる関係性によって形成れさている(成り立っている)ということが無視されています。

 

仏教的には、存在は縁起(縁によって起きているもの)に表される(結ばれる関係性によって、その場の「ある」存在・役割として確定する)というのと似ています。

 

自分しか信用していないと、いつも万能でなければならないと必死で生きることになり、人に弱さ見せられなくなります。

 

ですが、ずっと緊張して無理をしていますので、どこかで限界が生じて、人にさらしたくない姿を見せるようなことにもなります。

 

あるいは、人に裏切られたり、横領されたり、仕事のできない人が周りにいたりで、それは自分の信じていること(人は信用できない、自分しか頼れない)が外に表現されているわけで、言わば、自分で起こしているようなものなのです。

 

一方、共依存的に、特別な人とか何か(宗教組織、特別なモノなど)に互いに依存し合っていると、この関係性のみ強固になり過ぎ、ほかの関係性が希薄になったり、依存している関係を邪魔すると誤解して、他の関係を攻撃、切ろうとしたりします。

 

これはかなりいびつなことであり、強い依存なので麻薬のようなもので、これがないと生きていけなくなってしまいます。

 

マルセイユタロットの「節制」は、救済を表すカードで、天使姿の人物が描かれていますが、その手にはふたつの壺があります。

 

このカードは、マルセイユタロットのシステムの中では、バランスを示す「正義」のカードと関連性があり、両方から考えますと、まさに救済には関係性のバランスが重要であることが示唆されています。

 

先述したように、私たちは、誰も単独で自立や独立ができなく、実は多くの関係性のもとで立つことができているわけです。

 

その関係性を尊びつつ(自立を助けてもらっていることを意識しつつ)も、特定のいびつな関係性には注意し、自らの意思で、自然な形で、いろいろな人、モノとの関係性を結び、助け、助けられしながら自立・独立していくのが、本来の調和する道なのだと考えます。(調和と言えば、マルセイユタロット「星」のカードとも関係し、「星」は流す(与える)ことのできるカードです)

 

以前、「杖を持つこと」をタロットカードに杖が描かれている人物などからお話しましたが、杖を持って歩くこともまた、関係性を適切に扱うことと同意だと思います。

 

簡単に言えば、頼って、頼られてが、人として、この現実世界としての当たり前の生き方なのだということです。

 

ただ、その頼り方・頼られ方が不自然や不調和にならないよう注意しましょうというわけです。

 

不自然になってしまうのも、つまるところ、自分軸がしっかり確立されていないから、言い換えれば、自分自身との関係性が滞っているからと言えます。

 

無理矢理な自分、よく見せようとする自分、本当はできない・したくないのに不自然に続けている自分など、自分の正直な気持ちと向き合い、自らの内と相談しながら、少しずつ、自分がどうありたいかを取り戻し、素直なトータルな自分へと還元していくと、必死で得よう、保とう、失わせまいと、物事をコントロールする苦しい生き方から、必要な時に必要なものが現れる関係性の生き方へと、自分の人生が組み替えられていくことと思います。
 

マルセイユタロットの大アルカナを見ていると、その道が示されているように私は感じるのです。

 

私はマルセイユタロットを扱っています。

 

でも、タロットと言えば、世の中にはたくさん種類があり、伝統的なものはもとより、創作系、自作系、遊び系みたいなものも含めると、世の中にタロットは何千種あるかわからないかもしれません。

 

まあ、あえてまともとな、というと語弊がありそうですが、一応、メジャーでしっかりとしたシステムにあるタロットだけを取り上げると、種類はそう多くはないとは思いますが、それでもタロットは幾種類かに分かれるわけです。

 

それで、自分がどのタロットを学び、使うかというのも、人それぞれになります。

 

タロットをの選択については、このブログでも記事を何度か書ていますので、それを参考にしていただくとしまして、今日書きたいことは、自分が選び、使っていくタロットで、何を成すのか、どう表現するのかというのがテーマです。

 

これも結論から言ってしまえば、人それぞれで、大きな意味で言いますと、自分のあり方とか、人生の使命のようなものに関わっていると言えると同時に、細かい意味では、千差万別の方法に分かれると述べられます。

 

実は、これはタロットに限らないことだと思っています。

 

セラピーとか、何か人や自分の為になる技術を身につけたとして、それをどのように使うのかは、やはり個人で違ってくるはずです。

 

ですが、学びの段階で、もしその技術の創設者とか権利を持っている組織が、このように使わないといけないと規制をかけているとすれば、個人の自由に扱うわけにはいきません。

 

それにはビジネス的な理由もあるでしょうし、創設者の意図とか意思もあって、きちんとルール化していないと、その技術を正しく使うことが難しくなるという懸念があるからかもしれません。

 

とは言え、結局、人は誰一人まったく同じという人はいないのですから、同じ技法を使っていても、また、いくらルールで厳格化していても、実際には、個人個人の使い方で違ってくるのが実状でしょう。

 

私はタロットの中でも、マルセイユタロットという種類を選び、そしてそのマルセイユタロットの道に入るきっかけとなったのが、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(の中でも厳密に言えばカモワン流)であり、そのタロットに基づくルールとか規則もあって、それらを実践してきました。

 

ですが、長年やってきますと、ひとつの規準とか、そのタロット種とか展開法などの独特の決まりはあったとしても、結局、一人一人の個性でタロットリーディング、タロットの活用は異なってくるのを見てきました。

 

それは私自身のタロットを扱う歴史においても、言えることでした。

 

ということで、タロットを学び、タロットを活用していく人に、私なりの意見を述べたいと思います。

 

そのタロットの伝統とかルール、流派など、そういうものを守って、言わば正しくそのタロットというものを伝えたい、教えを守りたい人は、そうすればよいと思います。

 

そして、逆に、何か自分のやりたいこと、表現があり、それがタロットというツールを使うことによって、うまくできるのであれば、それもありです。

 

で、一見すると、前者と後者は違うように見えますが、大きな観点からすれば、実はどちらも同じなのです。

 

要するに、自分がやりたいことをやっているだけなのです。

 

心からやりたいこと(魂が望むもの)を現実世界で体験としてやる、言い換えれば、これが使命のようなものだと考えられ、本当にやりたいことをやっているのは、使命に順じていると言えます。

 

従って、ここが一番重要なのですが、タロットを学び、使っていく中で、何か自分(のやりたいこと)ではない、使っていくのが楽しくないどころか苦しい、やめたい、興味がなくなったなど、モヤモヤした感じ、冷めた感覚、一言で言えば違和感があるような場合は、自分の魂(の方向性のための表現方法)と乖離していると見たほうがいいわけです。

 

私はタロットカードで言うと、「正義」の縛りのようなものがあり、正しくないといけないという考えに支配されがちなところがありました。それは今でもあります。

 

ただ、それは私の個性でもあり、悪いわけでも、なくさなければならないものでもありません。

 

もし使命があるとすれば、使命のために、そういう「正義」のやり方を取る傾向があるということでもあります。

 

同時に、「縛り」である場合は、反対の「解放」とのセットでもあるので、そのこだわりから解放された場合、自分自身にも解放がやってくることになります。

 

マルセイユタロット以外のタロットについては、私にとっては今も興味がありませんが、だからと言って、ほかのタロットをやっている人、使っている方をどうこう言うこともありません。

 

その人たちはそれが好きであり、それを使うことで自分を偽りなく表現できているのなら、大いに結構なことだと思います。

 

私は私で、マルセイユタロットを使い、自分自身を癒し(本当の意味では癒しではないのですが、それはまたの機会にお話しします)、解放していくことのために(大きな意味では霊的成長)、このタロット活用するのが違和感ない方向性なのです。

 

ですが、ある技法だけにこだわるとか、ある教えは絶対であるとかは以前よりなくなって、マルセイユタロットの数の(7つの)進みで言えば、8「正義」だけではなく、15「悪魔」も、1「手品師」でもOKみたいなところで、大局的には「神の家」、「世界」の視点で見るようにしているみたいな感じです。

 

ということで、皆さんの今の使っているタロットと、タロットを使った何らかの活動が、違和感なく心からやっていることだと感じるのなら、人がとやかく言おうが、たとえ正統性とか、習った組織からはずれているように思われても、それでいいんじゃないですか、というところです。(笑)

 

※法律や規則、取り決めがきちんとあって、それを守らなければならないところがある(契約、サインなどして)場合は、それは順守するのは、社会常識としては当然ではありますが。
 

タロットを扱う人にも役割があり、占いで表現する人もいれば、心理技法的に扱う人もいますし、カードコレクターとして、タロットそのものの魅力を伝えていく人もいます。

 

みんな大きなタロット界という目で見れば、それぞれの個性・役割に応じて、タロットという題目・テーマの劇で、役を与えられ、演じているということなのです。

 

私はタロット劇場の中で、マルセイユタロットという題目の中で、また何かのひとつのシーンでの役割を、演じさせてもらっているという感じですかね。

 

タロットを例にしましたが、人は(やりたい)役者として、人生を楽しむようになっているのではないかというお話です。