若い頃、星、宇宙が好きだった。宇宙の端はどうなっているのだろう、そんな疑問があった。

普通、人の意識には、過去、現在、未来があり、昔のことを覚えている。空間はどうだろう、家の大きさ、広さ、東京までの距離はいくらという。距離、時間は普段の生活で必要な尺度であり、真実とされている。

でも、制限された狭い時間、空間内であてはまっても、時に始まりがあるのか永遠に続くのか、宇宙には端があるのか、宇宙の物質の総量はどの位かとなると、全く別である。それでは、宇宙の端や、時間の始まりの有無などは、今現在と無関係かと言えば、この地球はそのような宇宙のただ中にあり、人もそのただ中にいる、それが現実であるが、空間、時間、物質、エネルギーの基本、根源を知らずに生活している。

このような疑問に対し、神話等で創造主、天国、地獄をあみだした。しかし、科学が発達し、うそはばれてきた。

 

はるか昔、ブッダはこの世は因果であり、全ては流転しており、色即是空、空即是色と理解し、形あるものは空であり、空は形あるものである、又意識も感覚もそうであることを看破した。

実際現実はまさにブッダの言うとおりである。全ては因果で成り立ち、流転するからこそ生きている。時が止まることはこの世にはない。よって、色であり続けるものはなく、空になり、空は又色になる。(それに反し、死後も有り続けるため霊になりたいのは人だけである。)

 

時、空間、物質、エネルギーそれら色はそこに固定し静止したものではない、因果により、一瞬一瞬流転し止まることはない。この宇宙は因果、一瞬一瞬に変化している、なぜなら、時とは、止まり得ない宿命である。それが生の本質でもある。 

空間、時、物質、エネルギーは一体であり、分けることが出来ない、それら分類は科学者が机上で表現に使う単なる色分けであり、別々に有るわけではない、この世を分けて理解しようとする分別知にすぎない。

あるというなら、ここに空間だけを持ってこい。時間だけをもってこい。時の始まり、宇宙の端の発想は、今この瞬間に生きての感知ではなく、机上の分別的発想にすぎない。

 

ビッグバンが宇宙の始まりという。東洋人の私は、始まりを言うなら、その前はなかったのと聞きたい。 ビッグバンで始まったのは結構だが、時が動き始める瞬間、時が静止から動き始める状態を科学者はどのようにとらえているのか。始発電車の発車前くらいに思っているのか。その科学者は、ビッグバンが始まる宇宙全体をその外から見下ろしている見学者か。そういうならビッグバンに賛同する。そんなこの世の外に別の世界があるならばだが。