我思うゆえに我あり、西洋の人の言葉であるが、東洋人の私は何か違和感を感じる。自我の強さともいえるが、強度の有であり、無などかけらもないように感じる。別に思わなくても、我ありと言いたいだけでないのか。西洋には無、空はなかった。音楽、絵画、造園、料理、哲学、宗教にいたるまで人工的であり、人が主であり、自然は対立するもの、それに対し、東洋では自然と一体に全てが存在している。西洋の人は、木の霊、こだまなど思いもつかないのではないか。

頭脳が全てか、頭のない生命は物質と同じか、植物には頭がない、生き物で頭のないものはいくらでもいるだろう。植物は人のように頭で思うことはない、しかし、別の方法で生態系を維持し、葉や根、花、種を作りだしてきた。人だって、頭が人の生態系を全て制御などしていない。腸内等の無数の細菌は頭など無関係に働いているではないか、木も人と同じ生き物だ、大きな木の切り株を見て、痛々しさを感じる。きこりは木の霊を祭り、感謝した。

 

東洋と西洋の違いを感じるのは、物事を小さく分け、分析してとらえようとする西洋に対し、全体で把握しようとする東洋、アンシュタインは物質を小さく分け続けいまだゴールのあてはない、フロイドは心を夢分析しセックスにいたり、マルクスは社会を分析し金にいたる。 原因を細かく分けて理解する方法だけでは全体を見失うのではないか。単純すぎる理解ではないか。ごまかされやすい理解ではないか。一面的な見方ではないか。

 

そもそもなぜ認識しようとするのか。不明はなにをもって最終的結論にいたるのか。全体の一部である個が全体を見ることなどありえないのではないか。全体のなかにある個を感じて自然(全体)に従う、それが東洋と西洋の相違に思える。枠のない切り取らない絵、だらだらと流れ続く音楽、自然な公園、自然な食、自然治癒力を大事にする医療、漢方薬。どのようなことであれ、自然と一体が基本である。

 

西洋の宗教は人間が中心、我が強い。始まりがあり終わりがあり死後の世界に続く、有限的発想である。人格神を根源に構成している。現実を見るのではなく自分の発想を信じるなら人工的有限的にならざるを得ない。作りだした世界に合わせるのは無理がある。争いはたえない、我々の神こそ神であるから。我思うも我が神も、我有りが根源的理由ではないか。

 

生物が命を守ろうとする動作は、親から教わるものではない。単細胞生物でも命を守る動作を生まれながらに行う。人は、ロボット、AIを作っても、物質だけで構成される単細胞が、どうして生まれながら命を守る動作ができるのか理解できない。単細胞から引き継いだ不安・存在し続けたい宿命は人も同じである。無、空はその不安に対する理解ではないか。