単細胞、人、動物等どんな生物も生き延びようとしているように見える。有り続けたいように見える。人間には目があるが単細胞の生物にはない。生き物は外界のしげき(光、熱、圧力、放射線,化学的反応、他の生物からの攻撃)に対し反応し体を変化させ生き延びてきた。そして目や口、耳、羽、手、花、種、根、葉、毒等を備えた。擬態生物、植物の毒、とげ、それらは外界に対する個の反応に見える。自意識は人特有のものと言う人達がいるが、私には個の外界に対する反応(意識)に見える。

 

遠い昔、この世界に、物質が反応し膜に覆われた緩く化学結合した個物が発生。個物が存在し続けるための化学反応が継続し、存在し続けることが宿命になった。生命の誕生である。生命は、全体世界の中で、全体から別離し、しかし全体に依存した存在であり、消滅のおそれのあるはかなさを常に持っている。

 

有るという感覚は、生物が個で存在し続けたい願望(反応)ではないか。しかし、世界は変化し続けるもので一切の停止はない。有り続けたいととどまることは生の世界ではなく死の世界である。そして、そんな死の世界など妄想の中にしかない。この現実の世界は一瞬もとどまりはしない。物質、空間、時間、エネルギーに分けてとらえようとする意識(認識)は、有でありたい、この世界をとらえたいという欲であり、1,2,3の数字、始まり、終わりの意識も有限的発想である。あらゆるものは有り続けとどまることはありえない。岩が岩であるのはこの一瞬、物質、空間、時間、エネルギーが夫々に変化し一体であり、とどまることはない。物理の法則でこの世をとらえたい欲は、有限的迷い、あらゆる科学的法則は一面的真理であり、全体を把握しえない。世界を分けて理解する認識とは、この変化する世界を前にし、迷い不安に襲われる人が、有り続けたいと願望する迷いの産物ではないか。

 

生きている限り、外界に反応し、生き続ける。生き続けたいと反応するのは生物の宿命で死を恐れるのは自然である。しかし、死を恐れ妄想の世界に逃げても平安はない。ブッダは死後の世界を問われ、ただほほえんだと言われていると記憶している。そのときがくれば消滅が現実であり、逆に有り続けたいと固執するのは地獄になる。全体(自然)にもどればよいのではないか。

 

遠い将来、銀河星団はアンドロメダ星団と衝突する。よくある星団の衝突である。地球上の生物は全て物質に戻るかもしれない。人の体の構成物質(鉄等)は恒星の内部で生成したもの、宇宙では星が生成消滅、生物も生成消滅、今もどこかで生命が生まれ、消滅しているだろう。永遠に無限に変化している。