雨はとても美しい、雨って大好き。けど、私はたぶん晴れ女だから、雨と出会える機会はあまりない。
愛しくて、焦がれても、私以外の人の元に舞い降りる雨。片思いはいつも切ないものだけど、なんだかそれも、楽しめる気がする。

美しい雨。
奏でる曲は自然に私の世界にマッチングする。いつだって、外れることはない。そっと、自然と、側にいる。そう思えるから、私の元に降りてくれなくても、平気なのね。

美しい雨。
そろそろ私は出かけるから、雨もここを離れるかしら。追いかけに行くから、どうか逃げ続けて。

まだまだこの恋を楽しませて。

美しい雨。
愛しい雨。

少し大人しくしてます。

何書いたらいいか、わからなかった>_<

人は何故人を殺めてしまうのだろうか。テレビの中で流されるニュースは、まるで自分とは無関係の別の世界の話のように思えるのに、よく辺りを見渡すときっととても身近な現実なのだろうな、と思う。

私が住む岡山でも、私が知らないだけで、きっと殺人事件や障害事件なんていくらかは起こっているのだろう。それに耳を塞ぎ目を背けて生きている、と言うのは、それは現実逃避になるのだろうか。いや、しかし。


人は何故人を殺めてしまうのか。

そこには何が流れているのか。神は「完全な人間」を創るため、人に「死」を与えた。そこに住まう魂たちも霊的な存在たちも、みんながみんなでそこを目指し、幾度も幾度も地上へ降りては死を迎え、今一度挑戦する。

さて、私たちはもしかして、神のその行為を代行できると思っているのだろうか。意識はないかもしれない。いや、こう考える私が偏屈なのだとも言えることだろう。しかし、人は想像と破壊を繰り返す。まるで、自分が創造主であるかのように。何かを壊し、何かを作り上げたその一瞬はそうなのかもしれない。人がいつまでも生き続けることは問題であり、死とは進化や成長のためにも必要だ。何より、それはとんでもない(私たちが普段思いもしないようなとてつもなく大きな)萌芽を担っているのではないか。

普段私たちの中には自我だとか、道徳的観念がある。それはとても高い壁であり城でなくてはいけない。しかし、軽々とその城壁を越えて、玉座に座る王の首を取らせる力が、私たちのすぐ身近に存在しているのも事実。その力はそう、まるで隣人のように、自分自身のようにすぐ傍にいつもあるのだ。人間にはその力に負けないだけの内的な力が必要なのだが、人間はそれが自分自身の思いなのか、その存在からの囁きなのかが、わからない。それは、なんとも恐ろしいことである。


どうして人を人が裁くことができるのだろうか。殺めることができるのだろうか。

私には誰かを批判したり、捌いたり、そんなことはできない。

私にできるのは人を、ただそこに「在る」と肯定することしかできない。また、それでいいのだとも思っている。


昨夜は夜遅くまでアルコールに浸かり、私の人生において極めて強いお酒を飲んだりしてしまった。ほんの少しとはいえ、一気に飲み干したので絶対吐くことになると思っていたが、気分が悪かったのは最初のうちだけで、1時間も立つ頃には、外気の冷たさのおかげか、すっかり酔いが覚めていた。家に帰り少し眠り、朝起きて少しもぞもぞしたあとまた寝転んでいるとそのまま再び眠ってしまったようで、今しがた起床したわけである。流石に寝過ぎか、眠りすぎるのも良くないらしいが、と言いつつ、体のだるさにはどうしても叶わないものである。


さてしかし、こんな時間から起きて何をしようか、と頭を悩ませているのである。まだ体がだるいのも拍車をかけ、きびきび動くことは難しそうである。ううん、とりあえず晩ご飯でも作るか。


話は変わるが、最近再びヨガを始めた。コリ固まった体がほぐれて伸びて、非常に気持ちが良い。元々体が柔らかいほうだと思ってはいたが、ヨガを続けているともっと柔らかくなっていくように感じる。体勢的にきついポーズも、慣れてくると自然になり、どこまでも世界へ体が伸びて溶けていくように感じる。ヨガはリラックスとか精神統一に良いと言われているのだろうが・・・・体を動かしながら行える神秘修行として、始めやすい手段だと思う。これは中々におすすめ。

仕事中、唐突に対象物とのふれあい方に気づく。


そして、それをどうやったら絵画として昇華できるのかの足がかりも見つける。


あとは行うだけなのだが……日中できたことが、夜になるとなんともできない。おかしなものである。