優しさと美しさ 生き物 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

このところ護身術だの武術だの物騒な話が続いている。

格闘技や乱暴な話が苦手な読者もいるだろう、それについては深くお詫びする。

野人が目指したものは一般的に報道されている血みどろの格闘技の試合ではない。

文明地ではなく治安も及ばない、野獣から身を守り、食糧も自力で確保しなければならないような秘境で生きることを十代で覚悟したからだ。

試合はともかく今の格闘技や武道では野人の目的はまったく果たせない。

目標を見据えて独自の道を歩いたのはそれが理由だ。


人は美しいものにときめき、優しさに癒されるが野人も同じ、平和を求めることに変わりない。

海や山や川で遊んでいる時間が一番充実している。

感動、発見、好奇心、安らぎ、自然界はそれらが満ち溢れている。

しかし文明から離れてその中で生きようとすれば状況は一変する。

慈愛をもって見ていた彼らの命をいただかなければならないのだ。

その心の切り替えほど難しいものはない。

子供の頃からそれが当たり前のように暮らしてきたが、今も辛いものは辛い。

しかも年を追うごとにその辛さが増してくるのだ。

こればかりは経験したものでなければわからないだろう。

子供の頃可愛がって世話をしていたニワトリがある日食卓に上がる。

泣いて意地でも食べようとしない野人を母や祖母が諭した、食べなければ生きて行けないと。

鳥肉が一般的に流通するまでは何千年もそれが普通だったのだ。

今もそのような国のほうが圧倒的に多く日本は恵まれ過ぎている。

食べたければ本来は自ら命を奪わなければならないのは当たり前の道理。

肉や魚介をスーパーで購うことしか知らなければ理解し難いだろう。

野人は今も魚介類の殺生を続け調理しているが、毎回のように胸が痛む。

それはムー農園の野菜も同じで、切る時には必ず

「ごめんね・・」と言っている。

動物だろうが虫だろうが植物だろうが命の重さに変りはないのだ。

人は命あるものを食べなければ生きられないことは誰もが知っている。

言葉ではわかっているだろうがあらためて仕組みで考えて欲しい。

社会の仕組みの中で誰かがその命を絶つ役割を担うから食生活が支えられている。

殺せないが肉や魚は好物と言う人も多いがそれも仕方ないこと。

毎日動物や植物の命を絶ってもらい、その命をお金で買って自らの命を支えているはず。

牛も豚も鳥も、ペットの犬や猫や野鳥も・・同じ命に変わりない。

保険所でやむなく処分されるペットも、最初から食肉にされる運命の家畜も同じなのだ。

前者を救おうとする人は多いが後者を救おうとする人はいない。

愛情をもって何年も育てた家畜を、食肉として送り出す者が辛くないはずもない。

子供もお手伝いで世話をし、彼らに話しかけているはず。

ただ、人の都合で、あれは食べるもの、可愛がるものと仕分けされているに過ぎない。

また、知性の高さで命の重さが測れるものでもない。

国や地域や好みが変ればその仕分けも変って来る。

野人は口をきけない生き物達をそのように見ている。

保護される生き物とそうでない生き物・・

ムカデ、蚊、ハエ、牛、豚、鳥、魚、植物、身を守る為に、食べる為に人は命を奪う。

生きることは他の生き物の命を奪うことであり、すべての動物の宿命とも言える。


美しさ、優しさには反語があり、あるからこそその言葉は存在する。

上下、左右、善悪、表裏・・両端を知らずして公平な判断は出来るはずもない。

好みは自由なものだが、判断を誤れば多くの生き物の命は無意味に失われて行く。

生き物への判断は人間の理ではなく森羅万象の理で下すべきではないだろうか。

もの言えぬ生き物達の運命は人間の判断次第なのだ。

優しさ、美しさとは何か・・野人の答えは今も出てはいない。




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3本足のポチ 元は野良だった・・
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