「地方分権」は良いが、「地域主権」は間違い! | 武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

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国家主権、国家の尊厳と誇りを取り戻す挑戦!品格と優しさ、初志貫徹の気概を持って(滋賀四区衆議院議員武藤貴也のブログ)

 最近「地域主権」あるいは「地方主権」という言葉が一段と流行っている。内閣府には「地域主権戦略会議」なるものが設置され、メディアでも「地域主権型道州制」というような用語が頻繁に取り上げられている。調べてみるとその意味は、簡単に言えば「地域のことは地域で決める」ということらしい。

 確かに、国がしっかり政治を行わないから、地方がそれを正そうとある種の「ムーブメント」を起こすのは理解できる。しかし、そもそも「主権」とは、統治の独立性・最高性を示す国家の権利(簡単に言えば、国家が他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う権利)であり、普通歴史的に「国家主権」という言葉でしか使われない。つまりあくまでも「主権」というのは「国家」に帰属するものであり、それを「地域」に移譲することは「国家」を解体することに等しい。

 行政が行う事業を、地域に根ざし、きめ細やかにすることは必要であろうが、それはあくまでも分権(「権限」と「財源」の移譲)にとどめるべきであり、「主権」を地方に移すようなことを認めてはならない。ただでさえ戦後日本では「主権」意識が低いのにもかかわらず、「国家主権」を否定し「地域主権」なるものを、しっかりとした定義づけもせず、濫用するのはもうやめるべきである。

 明治4年(1871)、261の藩を廃し3府72県がおかれる様になった大改革「廃藩置県」は、中央集権化を図るために行われた。なぜ中央集権化が必要だったのか。欧米列強のアジア侵略に備え、一致団結し国を強くするためである。

 今も昔もアジア情勢は変わっていない。中国があり、ロシアがあり、北朝鮮があり、アメリカがある。中国は領海侵犯を繰り返し、北朝鮮は核開発を続けている。言わば常に有事の危機にさらされている。未だそういう時代にあって、国と地域の権限と財源の奪い合いのために、国が解体される、あるいは国の力が弱くなり地方が「わがまま」を言うような状態に陥ってはならない。

 埼玉大学教授の長谷川三千子先生は次のように指摘する。「地方主権というとんでもなく奇妙な言葉が独り歩きしている。これは、日本人から主権という概念がすっぽり抜け落ちている何よりの証拠である。地方は国家にとってどういう役割をもっているか。まさに地方がそれぞれ頑張って国家主権の担い手である自覚を示さなければらなら無い。日本にいったん事があれば、地方は地方として国のために全力を尽くす。これが地方の役割。しかし、どうやら地方主権を主張する人たちはそんなことは考えていない。地域のことは地域で勝手に決める。日本国全体がどんな危機にに直面しようと自分達は関係ない、こういう考え方が地方主権という言葉の中にはっきりと現れ出ている。まさに地方こそが国の主権を守る主役にならなければならないという考え方へ転換していかなければならない。」


 私は、国と地方の役割を明確化し、縦割り横割りで非効率な行政を改め、地方分権を進め、きめ細やかな行政サービスを行えるような改革には賛成である。また、行政のスリム化という意味において道州制にも賛成である。しかしそれは全て国家の発展のためであって、地域エゴのためであってはならない。また、その先には「国家主権」というものを常に意識したもので無ければならないと思っている。

 近日の報道を見ると、今後まさに「大阪・名古屋・東京」といった「地域主導」で国政が動いていく可能性がある。石原慎太郎都知事や橋下徹市長らが提案する憲法改正や国会一院制化、首相公選制などを目標・理念に政界再編が起こることは、ある意味好ましいと言えるが、「地方か国か」といった瑣末な対立で政界再編になることは好ましくない。


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