▼『目は口ほどに物を言う。』と言う言葉があります。
国語辞典で意味を調べますと、「目は口ほどに物を言うとは、情のこもった目つきは、言葉で説明するのと同等に、相手に気持ちが伝わるものだということ。」
と出ています。
国語辞典で意味を調べますと、「目は口ほどに物を言うとは、情のこもった目つきは、言葉で説明するのと同等に、相手に気持ちが伝わるものだということ。」
と出ています。
これはお芝居をする上でもとても大事な事だと考えています。
▼実生活でもそうだと思うのですが、いくら口では良い事を言っていても、目が泳いでいたり、焦点があってなかったり、うつむいて話をしていたら・・・その言っている事がどんなに素晴らしく、素敵な事だったとしても、説得力にかけるのです。
▼以前、こんな人がいました。
声も大きく、声も良く、動きもいいのに・・・台詞を間違える度に「目を閉じてしまう」
はたまた、
声も大きく、台詞回しもいいのに・・・恥ずかしいのか・・・視線を舞台外にだけ向けて、相手役を見ていない。
さらには、
声が良く、相手をきちんとみているのですが・・・目の焦点が定まっていない・・・
実際の生活の中でこんな人が居たら・・・ちょっと信用がおけないというか、げんなりしちゃいます。
▼こういうことがどうして起きるのか・・・
原因は千差万別だと思うのですが、「テキスト(台本)だけを追っている」とこうなってしまいがちです。
言うまでもなく、台本はその作品の拠り所です。だから無視することはできません。もちろん、お芝居をしている時には台本の事、役の事以外が頭の中にあってはいけません。
▼ここで大事なのが、他の役の役者さんが自分と同じ事を考えているとは限らない、ということなのです。
ですので、頭の中には役の事、台本の事はもちろんなのですが、視覚、聴覚、嗅覚、触覚・・・様々な感覚を研ぎ澄ませて、ある種冷静であることが必要なのです。
こうした感覚が常に研ぎ澄まされていないと、不測の事態・・・もし、なんらかの原因で予定と違う事が起こったら・・・
対処できるようにする「しろ」あるいは余裕、冷静さがないと、単にテキストを追っているだけの物になりかねません。
▼こうした余裕、冷静さをきちんと盛り込んで何回も繰り返し練習し、お稽古にて更に新しいものを感じる。日々進化、変化を成し遂げて行かなければ、そこまでの出来合いの物になりかねません。
▼ちょっと話が逸れましたが、お芝居をしている時には、常に周り、相手の挙動、鼓動、呼吸、全てに気を配り、万が一イメージと違う事や約束と違う事が起きても、自分の役の基本にしっかりと向かい合っていれば、その空間にはけして間違っている事や(役者として)かっこわるい事など起こり得ないのです。
▼「目」「視線」ということを気にしながらお芝居をしていると、様々な情報が入ってきます。その情報を元に感じたことを更に表現することもお芝居では大事だとぼくは考えています。
▼ここで大事なのが、他の役の役者さんが自分と同じ事を考えているとは限らない、ということなのです。
ですので、頭の中には役の事、台本の事はもちろんなのですが、視覚、聴覚、嗅覚、触覚・・・様々な感覚を研ぎ澄ませて、ある種冷静であることが必要なのです。
こうした感覚が常に研ぎ澄まされていないと、不測の事態・・・もし、なんらかの原因で予定と違う事が起こったら・・・
対処できるようにする「しろ」あるいは余裕、冷静さがないと、単にテキストを追っているだけの物になりかねません。
▼こうした余裕、冷静さをきちんと盛り込んで何回も繰り返し練習し、お稽古にて更に新しいものを感じる。日々進化、変化を成し遂げて行かなければ、そこまでの出来合いの物になりかねません。
▼ちょっと話が逸れましたが、お芝居をしている時には、常に周り、相手の挙動、鼓動、呼吸、全てに気を配り、万が一イメージと違う事や約束と違う事が起きても、自分の役の基本にしっかりと向かい合っていれば、その空間にはけして間違っている事や(役者として)かっこわるい事など起こり得ないのです。
▼「目」「視線」ということを気にしながらお芝居をしていると、様々な情報が入ってきます。その情報を元に感じたことを更に表現することもお芝居では大事だとぼくは考えています。
