物事というのは、見方によっては色々な見方がある。

例えば、言葉。
言葉は人に勇気や元気を与える。
しかし、組み合わせによっては、人を傷つける場合もある。

例えば、音楽。
耳に心地良い音楽はやはり、元気や勇気を与えてくれる。
それでも、心地悪い音楽は嫌な気分がすることもある。

例えば、包丁。
よく研がれた包丁は、食材を切り、美味しい料理の元となる。
使い方を間違えると人を傷つける。

例えば、自衛隊。
ぼくらを色々な脅威から護ってくれる、助けてくれる。
暴力装置という人もいる。

例えば、ミサイル。
ぼくらを突然の脅威から護ってくれる。
使い方を間違えれば、人を殺してしまう事もある。


物事には必ず両面、見方によってはかけ離れた見方がある。
どう見ようがその人の勝手だ。
しかし、例えば、ミサイルなんかを設計したり、取り扱ったりする人を『死の商人』と位置づける人もいる。
これには何故かクエスチョンマークが浮かぶ。
何故なら、彼らは人の死を対象に仕事をしているのだろうか。
誰かを護りたいからその仕事をしているのではないだろうか。
もちろん、その人々の気持ちの中が「人を殺すのが目的です」ということであったら、それは「死の商人」かも知れないけれども、扱っているモノだけを取り上げて「死の商人」というのは…ちょっとねぇ、と思う。

もちろん、歯止めが効かなくなってはいけないが、
言葉も音楽も包丁も自衛隊もミサイルも。
使い、運用するのは人間であって、そこに「好きに人を殺める」気持ちがないと思うし、もし、悪用されたのなら、運用している人間が悪いのであるとぼくは思う。