議論をしている時に結論がでない時がある。
結論が出る時もある。
ある人は言う。
「妥協しましょう」
と。
僕は議論をしていて、相手を言い負かす、とか論破するとかは一切考えていない。
また僕の意見がたとえ全面的に通らなくても負けた、なんて考えない。
譲れない事はもちろんある。
そういう時は、議論は平行線になる。
そして、大体の場合、その議論の相手とは何かを作る事はできなくなる。
昔居た組織では、
「負けた。理解したけど、納得していない。私の意見が否定された。」
とよく言っていた人がいた。
「その上で妥協する」
と。
議論っていうのは勝ち負けじゃないって思う。
モノを創る上においては特に。
議論が平行線になる場合、
大抵、前提がまったく違う場合に起こりえると思う。
基本と言うか、ベースというか。
この前提を同じにした場合、
つまり、議論の根本を同じにした場合は、
議論が逸れることもないし、
たとえ相反した意見を持つもの同士でも
「負けた・勝った」
などという考えにはならないと思うし、
議論というのは妥協点を見出すことではなく、
何かを創造する為に、お互いを認め合いその上で結論を出すことだと思う。
個人的な思いだけれども、
「妥協します」
と言われると、”渋渋感”がある。
それに、全部が全部、自分の意見が通らなければ、
「妥協」
となるようでは創造なんて到底無理だと思う。
その議論の後に、あきらめなければいけない、他の方法を探すしかない、壁は必ず現れるわけだから。
幸せなことに今の座では、こうした平行線になることは皆無といって良い。
僕が「先生」であることも影響しているかもしれないけれども、
それ以上に、そこに居る仲間達とのベースが共通だからだ。
個人個人自立していて、それぞの考えはもちろん持っている。
だけれども、自分ひとりでは「創る」ことが出来ない事を知っているからだ。
僕らの議論の後に「妥協」はない。
あるのは目標だけだ。
また躓きそうになったら議論をするのだ。
結論が出る時もある。
ある人は言う。
「妥協しましょう」
と。
僕は議論をしていて、相手を言い負かす、とか論破するとかは一切考えていない。
また僕の意見がたとえ全面的に通らなくても負けた、なんて考えない。
譲れない事はもちろんある。
そういう時は、議論は平行線になる。
そして、大体の場合、その議論の相手とは何かを作る事はできなくなる。
昔居た組織では、
「負けた。理解したけど、納得していない。私の意見が否定された。」
とよく言っていた人がいた。
「その上で妥協する」
と。
議論っていうのは勝ち負けじゃないって思う。
モノを創る上においては特に。
議論が平行線になる場合、
大抵、前提がまったく違う場合に起こりえると思う。
基本と言うか、ベースというか。
この前提を同じにした場合、
つまり、議論の根本を同じにした場合は、
議論が逸れることもないし、
たとえ相反した意見を持つもの同士でも
「負けた・勝った」
などという考えにはならないと思うし、
議論というのは妥協点を見出すことではなく、
何かを創造する為に、お互いを認め合いその上で結論を出すことだと思う。
個人的な思いだけれども、
「妥協します」
と言われると、”渋渋感”がある。
それに、全部が全部、自分の意見が通らなければ、
「妥協」
となるようでは創造なんて到底無理だと思う。
その議論の後に、あきらめなければいけない、他の方法を探すしかない、壁は必ず現れるわけだから。
幸せなことに今の座では、こうした平行線になることは皆無といって良い。
僕が「先生」であることも影響しているかもしれないけれども、
それ以上に、そこに居る仲間達とのベースが共通だからだ。
個人個人自立していて、それぞの考えはもちろん持っている。
だけれども、自分ひとりでは「創る」ことが出来ない事を知っているからだ。
僕らの議論の後に「妥協」はない。
あるのは目標だけだ。
また躓きそうになったら議論をするのだ。