なんとも物騒なタイトルですが・・・

新和座では作品を創る際、”役として舞台上で生きる”という思いを持ちながら、役について考え、稽古を重ねていきます。役者は役に真剣に向かい合い、台本上の登場人物の人生を読み込み、考え、その役として舞台上で生きる事を考えます。そこに役者の個人的な思いが入り込む隙間がないくらい役に向かい合います。

台詞と台詞の間、台詞とト書きの間、ト書きとト書きの間…はたまた、他の役の台詞の中からも…その役のヒントとなるものは死に物狂いで集めます。そして、演じます。
しかし、演じたからと言って、”その役が生きる”事は稀です。自分(役者)とは全く違う人生を歩んできた登場人物(役)を生かす、舞台上で生活させることは本当に難しいと思います。
反対に殺す事は・・・その役を殺すことは簡単です。ちょっと気を抜けば、自分自身(役者)としての顔がチラッと覗けば…お客様に看破されてしまいます。そこでその役は…その物語の中で生きなくなってしまいます。

もちろん、役者たるもの、ある種の冷静さを持っていなければ、舞台という生のモノをやる上では不測の事態や相手からのメッセージ、お客様からのメッセージを受け取る事はできません。ですので、ある種の冷静さは持つべきであり、それがなければ、舞台作品としては面白味に欠けるものだと思います。
しかしながら、それらばかりでは、物語上の登場人物では無くなってしまう気がするのです。

この二律背反を抱えながら…役と向かい合い、”その役として舞台上で生きる”という事を実現させるためには…物語の中で必死に生きている人を演じる、生かすためには…気を抜くこと無く、役の情報をたくさん集め、処理し、他者(他の役・装置・道具などなど)にも意識を向け反応しつづけながら、芝居をすることが肝要だと、私は考えています。