新和座では、というよりも、僕が持っている講座だったり、稽古場では
『練習』と『稽古』をわけて考えています。
一体何が違うのか。
それは、”演出者”がいるかいないかと言うことです。
言葉はなんでも良いのですが、
所謂先生や演出家が居て、演出行動などをすることを”稽古”と考えています。
他方、役者同士が稽古を元に繰り返したり、研鑽したりするのを”練習”と考えています。
何故切り分けているか。
両方ともお芝居を作るのには必要な時間であることには変わりありません。
しかしながら、明確に役割を分けることによって、少ない時間をより効果的に使えると考えているのであります。
お稽古では、自分自身の稽古はもちろんのこと、他者の為に稽古をすることが第一義と考えています。これはひいては作品を作るという行動につながりますし、お互いがお互いの為と思って稽古することで全体のレベルアップにもつながります。
また、演出がいることによって、様々な解釈がある物語に、公演に対しての方向性が明確になります。
一方練習は自分の為に行う事が主になってきます。
お稽古を通じて得た情報(動きや仕草、物言いなど)を繰り返し繰り返し行うことで身にしていくわけです。また、台詞を覚えるのもこの練習に含まれると考えます。他人の為にするお稽古で台詞を覚えるなどというとんでもない事はできないわけです。
また、始めたばかりの方が陥りやすい事象として、次のようなものがあります。
練習を通じて他の俳優さんと色々と試す。その中で動きや仕草で新たなモノが得られるとします。ここまではいいのですが…
この新たなモノが決定ではないのです。
よく陥りやすい事ですが、「こっちの方がいいから」
と勝手に判断してしまう場合が危険なのです。
繰り返し練習をするとこうした罠に陥りやすいのです。
こと、公演に向けた稽古を行なっている場合、練習で得たものをお稽古でみせるという大原則を行わずに練習だけでその気になってしまうという罠なのです。
公演では演出のある種の好みで構成されています。ですので、いくら練習でしっくり来たとしても、お稽古で演出の好みに合わなければ、どんなに良くてもそれは日の目を見ないのです。
もちろん、技術としては習得したことになりますので無駄ではありませんが、
練習だけで得たモノは確定したものではないのです。
練習とお稽古の役割をよく考え、バランス良く取り組む事が肝要だと私は考えています。
『練習』と『稽古』をわけて考えています。
一体何が違うのか。
それは、”演出者”がいるかいないかと言うことです。
言葉はなんでも良いのですが、
所謂先生や演出家が居て、演出行動などをすることを”稽古”と考えています。
他方、役者同士が稽古を元に繰り返したり、研鑽したりするのを”練習”と考えています。
何故切り分けているか。
両方ともお芝居を作るのには必要な時間であることには変わりありません。
しかしながら、明確に役割を分けることによって、少ない時間をより効果的に使えると考えているのであります。
お稽古では、自分自身の稽古はもちろんのこと、他者の為に稽古をすることが第一義と考えています。これはひいては作品を作るという行動につながりますし、お互いがお互いの為と思って稽古することで全体のレベルアップにもつながります。
また、演出がいることによって、様々な解釈がある物語に、公演に対しての方向性が明確になります。
一方練習は自分の為に行う事が主になってきます。
お稽古を通じて得た情報(動きや仕草、物言いなど)を繰り返し繰り返し行うことで身にしていくわけです。また、台詞を覚えるのもこの練習に含まれると考えます。他人の為にするお稽古で台詞を覚えるなどというとんでもない事はできないわけです。
また、始めたばかりの方が陥りやすい事象として、次のようなものがあります。
練習を通じて他の俳優さんと色々と試す。その中で動きや仕草で新たなモノが得られるとします。ここまではいいのですが…
この新たなモノが決定ではないのです。
よく陥りやすい事ですが、「こっちの方がいいから」
と勝手に判断してしまう場合が危険なのです。
繰り返し練習をするとこうした罠に陥りやすいのです。
こと、公演に向けた稽古を行なっている場合、練習で得たものをお稽古でみせるという大原則を行わずに練習だけでその気になってしまうという罠なのです。
公演では演出のある種の好みで構成されています。ですので、いくら練習でしっくり来たとしても、お稽古で演出の好みに合わなければ、どんなに良くてもそれは日の目を見ないのです。
もちろん、技術としては習得したことになりますので無駄ではありませんが、
練習だけで得たモノは確定したものではないのです。
練習とお稽古の役割をよく考え、バランス良く取り組む事が肝要だと私は考えています。