今日は朝ん歩をして

 

晴れていたかと思ったら空が暗くなり

 

ざっと降ってきました☔️

 

公園を通ると

 

終わりかかった紫陽花が咲いていましたが

 

色もあせてきて

 

季節の変わり目を感じます

 

もう梅雨も終わりですね

 

花が散るのを見ると

 

なんとなく寂しく感じますね

 

それはそこに美を見て

 

現実に手にしたり

 

香りを楽しんだり

 

癒されたり

 

実際一緒に過ごした現実が

 

失われていく喪失感があるからです

 

大切な人を失った時の様に

 

 

 

本来無一物

 

 

という言葉を取り上げてみたいと思います

 

大好きな言葉ですので

 

いつ取り上げようかと思っておりました

 

 

 

 

クライアントさんからこんなご相談がありました

 

裕福な家庭に生まれ

 

容姿にも恵まれ

 

頭もよく

 

 

周囲からは羨ましがられる様な生活をしていらっしゃいますが

 

怖いのだそうです

 

失うということが、、

 

 

 

人は持っているものが失われてしまった時に

 

不幸を感じます

 

 

元々何もないところには喪失感は生まれず

 

不幸を感じることもありません

 

 

太宰治は「人間資格」の中でこう記しています

 

「弱虫は幸福さえ恐れるものです。

 

綿で怪我をするんです。

 

幸福に傷つけられる事もあるのです。」


太宰治はイケメンでお金持ちの子で、頭もよく、


女性にモテて


でも不幸だと感じていたのでしょうかね。


それらをもし、持っていなかった人が


それらを手に入れたら


きっと幸福を感じることでしょう。


失うかもしれない怖さは


不幸だと感じてしまうのでしょうね。

 

 

 

 

さて本来無一物という言葉ですが

 

禅宗五祖の弘忍(ぐにん)は

 

弟子たちの力量が祖師の法を伝える水準に達したと悟り

 

弟子たちに各々の境地を記し、表明させ、優れた者を

 

後継者にすると言いました

 

 

弟子の中で、誰もが認める秀才で人望も厚く

 

後継者で間違いないであろうと言われていた神秀(じんしゅう)は

 

 

身はこれ菩提樹、心は明鏡の台のごとし

 

時々つとめて払拭せよ

 

いつも心をつとめて清め

 

煩悩や妄想の塵に汚されない様にすべきである

 

と述べたのです

 

 

 

 

 

すると

 

貧しく育ち、寺に入ったばかりで

 

字も読めないので米つきとして寺に従事していた

 

慧能(えのう)がそれを聞きこう言いました

 

本来無一物

 

菩提本樹なし、明鏡もまた台に非ず

 

何のところにか塵埃(じんあい)を惹かれる

 

 

悟りという樹も鏡の様な心もありはしないだろう

 

なぜなら本来何もないのだから

 

 

どこに塵や埃がたまり

 

何を払い拭くのだろうか

 

 

 

 

まさに悟りの境地をずばり言い放ったのです

 

弘忍は認めざるを得ませんでした

 

後継をこの米つきであった慧能に譲り

 

慧能は禅宗代六祖となったのであります

 

 

筆頭弟子であった神秀は後継者にはなれず


北へ移り

 

その地で禅宗を広め


やがて武則天に取り立てられ


国師となりました

 

慧能は同じく政府に取り立てられるも


それを辞退しました

 

という歴史があります

 

 

私の大好きな話です

 

 

本来は何もない

 

何もなければ失う事もなく

 

惑わされる事もなく

 

傷つく事もない

 

だって何もないのだから

 

 

幼少の頃に雑草の様に貧しい生活をしたいたという人の

 

失うことの恐怖心を持たずに

 

突き進むその強みを知っているからこそ

 

物に恵まれて育った人はコンプレックスもあるのです

 

本来は何もないはずですよ

 

と自分に言い聞かせてください

 

失う物など存在しないのです

 

 

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