松平信定 | 無趣味男の趣味日記

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松平信定
不明~天文七年 戦国時代の武将 桜井松平家の初代

松平家宗家安城松平家の松平長親の三男として生まれる。

長兄・信忠は松平宗家の跡目でありながら一族・家臣からの人望が乏しく、大将としての器量もなかったゆえに松平党は統率を欠いた。そのため、信定の家督継承を望む声があり、父・長親からの期待も受けていたともいわれる。
しかし、叔父・松平親房の養子に出されたため、宗家跡目の候補から外され、三河国碧海郡桜井に桜井城を築いた。

やがて、宗家の家督は信忠の子・松平清康が継ぎ、信定は清康に仕えることになるが、宗家に従順といえる姿勢ではなかった。


大永六年、宗家が敵対していた織田氏と縁を結ぶ。

天文四年、森山崩れにより松平清康が殺害されると、信定は混乱に乗じて岡崎城を占拠する。松平広忠らは伊勢に逃れる。
しかし、広忠の近臣・阿部定吉の働きなどにより、今川義元の支持を取り付ける等したため、情勢の不利を悟った信定は広忠に帰順した。

その後も信定は広忠に対して恭順とは程遠い態度をとり続ける。

天文七年、没する。