前回、『U.W.F.外伝(平直行・著/双葉社/2017年11月19日第1刷発行)』を読み終わり、書評(感想)のようなものを書き終えた。
 
 
 この本の中には、平直行をはじめ、佐山聡や前田日明にもサンボを指導したビクトル古賀の話が登場する。
 
 過去に、柔道の三船久蔵と木村政彦の「技」に対するビジョンが、「作家」と言う名のフィルターを通しているとは言え、あまりにも対照的で面白すぎることについて、述べたころがある。
 
 
 そして、平直行と言うフィルター通してではあるが、ビクトル古賀の「技」に対するビジョンは、三船と木村のどちらに近いかと言うと、三船久蔵の方に近いことが判明した。サンボだったか、高専柔道だったかでよく言われる「脚の力は手の数倍ある。手よりも脚を使え。脚よりも頭を使え。」にも通じるところがある。「柔」と言う文字が「臨機応変さ」を表しているとするならば、三船久蔵もビクトル古賀も「柔」の人と言うことになる。
 
 以下、『U.W.F.外伝』の146ページから147ページにかけて。
 
『「相手も真剣なんだから、そんなにうまく技なんてかかるわけがない。それを無理やり極めようとしても無理なんだよ。無理なことを俺はやらない、だって努力しても無駄だろう?」徹底的に抵抗する相手には、それを利用することがもっとも有効だ。抵抗する相手の動きを逆手にとって技を狙う。何か技を仕掛ければ相手はそれを回避しようと動くのでそれを見越して次の技を仕掛ける。さらにその次の技も頭の中で用意しておく。1つの技で仕留めようとするならば、そこから逆算して布石となる技をあえて仕掛けるわけだ。重要なのは肉体ではなく、思考の速さ。これが古賀先生の強さの秘密。相手の思考がついてこられなくなったら、仕留めるのは簡単だ。思考が止まれば、動きも止まるからだ。人間は、思考の途中で動くことができない。交通事故のわき見運転がいい例だ。20歳そこそこで古賀先生にこの理論を教えてもらった僕は、シュートボクシングの打撃にそれを活かしてきた。』
 
 ちなみに、三船久蔵の技に対するビジョンは、『「柔道の神様」と呼ばれた男』の99ページに、以下のようにある。
 
『相手を倒す柔道だから、久蔵は立技の方が性に合っていた。が、得意技は持たない。勝敗は相手の虚(弱点)を衝き、迅速に動いて敵を倒すことで決まる。得意技があったとしても、相手はその技に入るかたちになってくれるとは限らない。そのかたちを作ろうと努めれば、そこに虚が生じて、相手につけ込まれる。体の動きは千変万化ゆえ、お互いに多様な虚を作り出す。その虚に適応した技を繰り出した方が、勝を得ることになる。久蔵はそう考えるから、得意技を作ろうとしなかった。多くの技を研究し、生涯に一度しか遣うことがなくても、それでよい、と思っている。』
 
 対する木村政彦の技に対するビジョンは、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の93ページから94ページにかけて、まず以下のようにある。
 
『「引くとみせて押す、右技をかけるふりをして左技をかける。そうやって相手をだまし技をかけていてはだめである。たしかにだまし技は成功することもある。だが、本当に強い相手、日本一を狙ってしのぎを削るトップクラスの選手たちには通用しない」これは初めての師木村又蔵の柔道を否定した論理と同じである。たしかに柔道の崩しのひとつのパターンは、木村の言うだまし技で成り立っている。(中略)しかし、このように相手が押し返してくるところを狙ったりすると、相手がこちらの思うとおりに反応してくれないと投げることはできない。また、一度はかかっても、手の内がわかると二度とかからない。つまり、絶対に投げることができるわけではなく、相手が反応しないグレーゾーンがあるのである。投げることができるかどうかは運でしかないのだ。こういう柔道を木村は”だます柔道”と呼ぶ。そして、この”だます柔道”を排除することによってしか本物の強さは身につけられないと木村は考えた。どんな体勢だろうと、こちらが投げたいときに投げることができなければ、それは本当の技とは言えない。機敏に動き、相手の機先を制すことも否定した。相手の技を真正面から受け、それを跳ね返す力を求めた。つまり、変化球のような兵法を使わず、技そのものを磨き上げて、直球勝負で勝ちたかったのだ。』
 
 続いて144ページ以降には、以下のようにある。
 
『必殺の大外刈りは、相手がどう動くか、相手が何の技を掛けるか、そういうことは一切関係なく、木村が投げたいときにかければそれでよかった。木村の言うところの「だます柔道」を徹底的に排すところから生まれた「王者の柔道」は完全に完成していた。』