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日吉大社・西本宮・本殿。
 
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日吉大社・東本宮・本殿。
 
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日吉東照宮・唐門。中には入れなかった。
 
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延暦寺・根本中堂を外から写す。門から内は撮影禁止。目に焼き付けよう。
 
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延暦寺・東塔。
 
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一等三角点「比叡山」=大比叡=比叡山山頂。訪れる人は、それほど多くない。
 
 比叡山は、滋賀県大津市と京都府京都市の県境にまたがる山で、大比叡(標高848.3メートル)と四明岳(しめいがたけ、標高838メートル)から成る相耳峰の総称です。日本300名山、関西百名山に選定されており、山上には日本天台宗の本山寺院で、古都京都の文化財のひとつとして世界文化遺産に登録されている延暦寺(延曆寺)があります。恐山・比叡山・高野山で日本三大霊山とされることもありますが、異説もあります。
 
 15年ほど前に琵琶湖方面に寄る機会があり、そこからきれいな比叡山が見えました。そのとき、ロープウェイやケーブルカーを使用せず、徒歩で登ってみたいと漠然と考えていました。また、自分は父方の家が天台宗、母方の家が真言宗だったので、一度は訪れるべき場所でした。
 兵庫県姫路市内にある書写山円教寺(書寫山圓教寺)は、「西の比叡山」と呼ばれており、そう呼ばれる限りは「書写山円教寺は比叡山延暦寺を超えられないこと」を示していますが、風景やたたずまいを比較してみる必要もあります。
 
 今回は、滋賀県側から登って、延暦寺と大比叡(一等三角点「比叡山」)を目指し、京都府側から下りる計画を立てました。2012年に山歩きを初めてから、登ったことがあるのは兵庫県の山、岡山県の山、鳥取県の山のみでしたので、滋賀県の山としても、京都府の山としても初めての山歩きとなります。
 
 以前、伯耆大山のときも、神戸市の摩耶山のときも、「まず山頂に着いてしまい、下山中に初めての神社仏閣の奥の院・奥宮や本堂・本殿等を見てしまい、登ったことのない参道を下りて体験する。」と言う失敗をやらかしてしまいました。あの、参道を登りつつ核心に近づいていく高揚感は、非常に大切だと思います。
 今回は、JR比叡山坂本駅で下車して、まず日吉大社を目指しました。かつて、「六甲山」は「むこうやま」と呼ばれ、「書写山」は「そさやま(ソサは、スサノヲのスサと関連)」と呼ばれていた話をしましたが、この「比叡山」も仏教伝来前は、「日枝山(ひえのやま)」と呼ばれていました。「日吉大社」の「日吉(ひよし)」も、もともとは「ひえ」と発音しており、「日吉」も「日枝」も「比叡」もルーツは同じと思われます。仏教が繁栄するまでは、比叡山じたいが神様と思われていたことでしょう。「ヒヨシ」と「ヒエ」には関係ないと思われますが、標準語の「良し」を、関西弁で「エエ」と言います。(と思いつつ、インターネット上を眺めていたら、大阪市には「住之江区」と「住吉区」があり、「住吉」区内には「墨江」と言う地名があることがわかりました。「墨江」と「住之江」と「住吉」は同語源です。昔は「住吉」と書いて「すみえ」と発音していたようで、あながち自分の推測が的外れではなかったことに驚きました。)
 日吉大社もゆっくり満喫したかったのですが、翌日の宿泊用の荷物もしょい込んでおり、気温も上がる一方なので、体力の消耗を防ぎ、予定時間を過ぎて日が暮れるようなことのないように、先を急がなくてはいけませんでした。西本宮と東本宮をお参りし、本日の無事故を祈りました。奥宮のある八王子山(標高381メートル)に登る暇がなかったのは、本当に心残りです。
 
 次に南へと移動し、日吉東照宮の見学に行きました。創建時は、延暦寺の末寺でしたが、現在は日吉大社の末社となっています。この辺り、「権現」の面白いところかもしれません。中に入ることができず、外の唐門を見ることになりましたが、次の場所を目指すこととしました。
 
 比叡山高校北側、早尾神社南側の「本坂」と呼ばれる表参道から登り始めました。実は、日吉東照宮に至る前に坂本ケーブル坂本駅を見てしまい、この時点で気温は摂氏27度。ケーブルカーで、するりと山上まで登りたい衝動に駆られましたが、「昔の人は、ケーブルカーもロープウェイもマイカーもなかったんだ。高貴な人以外は、みんな徒歩だろ。」と言い聞かせて。歩き始めました。この「本坂」と呼ばれるルートを登っていて、まず驚いたのは、道幅の広さです。書写山の参道や摩耶山天上寺跡の参道など、比べものになりません。おそらく、近代に自動車が発明されたのち、建築工事や森林整備のために道を太くした訳ではないと思います。古来から、これだけ太い道をたくさんの人が登ろうとする需要があったのではないでしょうか(間違っていたらごめんなさい)。これだけ広い一本道ならば、道迷い遭難することも、まずないでしょう。その道幅の広さとは対照的に、平日真夏に徒歩で本坂を上って延暦寺に至ろうとする現代人の少なさは、意外でした。確か、登る人、下る人含めて10人くらいしか、出会うことはありませんでした。結局、本坂入口から延暦寺会館まで、ジャスト1時間、5040歩で辿り着きました。水分補給した後、参拝を始めました。
 
 延暦寺を訪れたのは、初めてです。延暦寺とは、単独の建築物の名称ではありませんので、「これが延暦寺だ!」と指さすこともできなければ、1フレームに撮影することもできません。延暦寺とは、比叡山上に存在する150ほどの堂塔の総称です。比叡山にあるこのルートでは巡拝受付場所に出なかったので、日本の精神文化の真髄と、建造物を含む神聖な存在に触れるため、国宝殿を含む1200円の参拝料金を払って見学しました。根本中堂、大講堂など、東塔(とうどう)と呼ばれる区域を主に見学させていただきました。
 国宝殿は、歴史的建築物ではなく、館内に天台宗関係の仏像をはじめとする国宝が、展示・保存されています。平安時代や鎌倉時代・南北朝時代の仏像が、申し分ない保存状態で展示されており、圧巻でした。
 大講堂では、比叡山で修業した各宗派祖師の像が泰安されていました。きわめて日本的な宗教観ですが、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮らが、ここ延暦寺に祀られている訳です。それを考えると、日本の精神文化のルーツとして、ここ比叡山は無二の聖地と言っても過言ではないでしょう。
 それともう一つ、延暦寺と日吉大社を巡っていて思ったのは、現代人が「法令で明文化されていないタブー」について、意識が希薄になっているのではないか、と言うことです。いたるところに、「撮影禁止」「飲食禁止」「携帯電話(通話)禁止」「喫煙禁止」「土足禁止」「立入禁止」「帽子を脱いでください(着帽禁止)」を意味する注意書きがありました。場所によっては、「ペット持込禁止」もありました。神聖な場所、厳粛な場所では、そこだけで働くルール(タブー)があり、そこの足を踏み入れることは、そのルール(タブー)を承知しないといけないということでしょう。特に、日本人がその模範例を見せてほしいものです。
 
 東塔と呼ばれる区域から、どのように山頂(一等三角点「比叡山」)に行くのか、よくわからず、国宝殿の受付の方に尋ねました。阿弥陀堂の裏からとのことで、なかなか趣のある道が続いていました。意外なことに、一等三角点「比叡山」や、「大比叡」を示す道標や案内板は、ほとんどありませんでした。本当にこの方向にあるのか?と疑いつつも、三角点に到着することができました。摩耶山の三角点と同様、展望はなく、樹木に囲まれています。延暦寺が陽ならば、三角点は陰です。三角点は、参拝者的観点からは寄る必要のないスポットであり、ハイカー的観点からは訪れておきたいポイントです。
 
 さらにここから「ガーデンヒルズ比叡」辺りを経由して、「雲母坂(きららざか)」を下りて叡山電鉄修学院駅を目指しましたが、中途までは「京都1周トレイル」の道を兼ねていたようで、道標がたくさんありました。大比叡から修学院駅まで、ジャスト2時間かかっています。駅までの下山は、10500歩いています。「本坂」の道幅の広さとは対照的に、登山口近くの「雲母坂」は、岩や土砂がV字型に削られた細い道で、左右が苔むしていたりして、「古道」を感じさせる趣のある道でした。
 帰宅してから気づいたのですが、滋賀からの「本坂」は最澄にゆかりのある道、京都からの「雲母坂」は親鸞にゆかりのある道でした。
 
 歴史の重みを感じる1日でしたが、トレッキングと直接関係ない宿泊用荷物の入った背中のリュックも重かったです。
 
 
※余談ではあるが、私が山歩きのブログを書き始めてから、参考にしてもらうために同じ山に関するリンク先を下記のように掲載している。最初の頃からリンク先を掲載している某サイトの著者(管理人)が、「比叡山」と「書写山」を、サイト上でこきおろしている。「比叡山」に関しては「くだらない」「最低最悪の山頂」「なぜ日本三百名山?」「なぜ金を取る?」。「書写山」に関しては「なぜ金を取る?」「山頂が全く面白くない」「山頂はお寺があるだけ」。結局、この著者は「歴史」と「精神文化」と「建築物」「芸術」に興味がないのだと思う。多様な価値観を持つ人々のいる現代社会の中で、「寛容さ」と「小さなことからも学ぶ姿勢」と「先人の偉業あってこそ今があること」は、忘れないでほしいものである。おそらく、著者のあなたよりも高い精神的境地に辿り着いた人々が、比叡山から山ほど生まれたことでしょう。数百年後、あなたの残した山の情報について、たとえ誰も見向きもしなくなったとしても、比叡山も延暦寺も今と同じく栄えていることでしょう。
 
 
「比叡山」
 
 
 
 
 
 
 
「延暦寺」
 
 
 
 
 
「日吉大社」