前回、「『生きる意味(上田紀行)』と『生きるチカラ(植島啓司)』」と言う記事を書いた。
 
 
 その『生きる意味』から、2カ所ほどを抜粋して、紹介したいと思う。
 
まずは、「はじめに」から。
 
『 一部屋の一台テレビがあるような暮らし。一家に一台も二台も車があるような暮らし。それはこの地球上で一握りの人たちのみに許された豊かさである。しかしその中で私たちは生きることの虚しさを感じている。自分がいまここに生きている意味がわからない。自分など別にいなくてもいいのではないか。自分が自分でなくてもいいのではないか。
そんな社会は決定的におかしいと私は思う。紙も鉛筆もコンピュータもある。しかし道具はふんだんにあっても、それを使って夢を描くことができない社会。一生懸命働き、社会に貢献してきた人たちが、自分たちにもはや価値はないと思わされ、老後の不安に駆られるような社会。どう考えてもおかしくはないか。
 
 経済的不況が危機の原因だと言う人は多い。しかし、私たちの多くは既に気づいている。景気が回復すれば全てが解決するだろうか。問題の本質はもっと深いところにあるのではないか。私たちをこれまで支えてきた確かなものがいまや崩壊しつつあるのではないか。
 
 『生きる意味』の方が、『生きるチカラ』よりも、社会側からのアプローチが強い、と述べたのが、何となくわかっていただけるかと思う。社会の現状を、右肩上がりの時代と比較しながら、分析し、問題点を挙げつつ、これからの生き方を提唱するスタンスである。
 
 
 また、著者の主張ではなく、著者が宗教を研究していると知って、知人が以下のような質問をしてきたらしい。この発想は、自分にはなかった。
 
『 「織田信長は「人生五十年」とか言ってますよね。あの時代には人間は50年しか生きられなかった。でもいまは八十年ですよね。となれば、人間は三十年分賢くなっていなければいけないんですよね。その分人生について考える時間ができたわけだし、それも人生経験をたくさん積んできた老年期の三十年なわけですから。でもみんな八十年も生きているのに、何て言うのかなぁ、こう「魂の進化」って言ったら大袈裟だけど、人間の生き方がそれだけ深くなったっていう感じが全然しないのは何故なんでしょう? 織田信長の時代で人生五十年ですから、キリストとか仏陀の時代はもっと人生短い訳でしょう。なのにあれだけの思想が生まれているわけで。仏陀の時代よりわれわれは何十年も長生きしているんだったら、考える時間はたっぷりあるわけだから、みんなが悟っちゃえるような時代になってもいいわけじゃないですか。それなのに、みんな八十年も生きていて、こんなありさまだとはねぇ。」
 
 平均寿命が八十年を越えているにもかかわらず、人生何年生きられるかという「数字」を伸ばすことだけを考え続け、一年でも平均寿命が延びればそれだけ幸せになると考えるのはほとんど滑稽と言っていい。むしろ問題は、それだけ延びた人生の時間をどのように満足して過ごすかということなのではないか。
 
確かに、長生きできるようになった分、人々の思索は深まるどころか、内臓や筋骨がダメになる前に、頭(ブレイン)や心(マインド)がやられていっている。現代人の魂がより深化&進化して、全員が新しい境地へ向かおうとしているかと言われれば、ほとんどキリストや仏陀の時代と変わりない。ただ、人権と科学知識だけはジリジリと進んでいる。