かつて、「月明かりで登山」を敢行し、 


 その後、同志の協力を得て、「月明かりで型稽古」を遂行した。

http://blogs.yahoo.co.jp/musyaavesta/66095024.html

 単に、「○月×日のなぎなた演技競技で勝利する」とか、「○月×日の県立武道館の演武会で良いものを見せる」とかを目的にする限り、このような発想は出て来ないし、思いついてもなかなか実行には写しにくい。それは、即効性を期待できないからだ。師やトレーナーの指示通り、メニューをこなし、助言を受けた方が、試合に直結した結果が得られる。なぎなたの県大会で、自分と組んでくれる選手に、「大会前の○月△日、午後10時15分に集合して、山頂まで登山した上、月明かりの中、仕掛け応じを繰り返し稽古したい。」とお願いしても、良い返事を得ることはできないだろう。

 ところが、「月光稽古」が感覚を研ぎ澄ますことについて、マイミクの竹さんに共感していただき、このたび、「月明りで登山」のときに単独で登った低山へ、「月明かりで型稽古」のときに組んでいただけたTさんと、さらにYさんと、私の3人で登った上、広い山頂にて、木剣を用いて稽古をする運びとなった。

 満月から2日後の登山で、月の出は午後6時半頃、月の南中は午前0時半頃だった。山の南側から登り始め、東側を歩いていくコースなので月明かりはベストの方向から降り注ぐはずだった。ところが、当日午後8時頃は曇りで、既に見えるはずの月の姿は全く見えず、残念な結果となってしまった。麓の某神社で安全祈願をした後に、午後8時半、登山口から登り始める。この山は、ときどき岩肌が露出したところもあり、あまり高木が生えておらず、真上はだいたい空が見えるところばかりである。ところが、驚愕の事実に気付く。53万人都市である姫路市の夜は明る過ぎて、全く月光がなくても、足元がかすかに見えるのだ。道路や自動車の明かり、民家の明かり、商工業施設の明かり・・・それらの光が地上の空気で乱反射して、ここは岩肌、ここは土の道、ここは草と、はっきりわかってしまう。たとえネコやフクロウではなくても、真上が枝と葉に閉ざされてなければ、都市にある安全な道の山は、LEDライトなしでもオールナイト歩けることが判明した。この日は三人が三人とも見えたので、間違いはない。これが、離島の山や、雲海より上の山ならば、同じことにはならないだろう。
 姫路市南部は、11月下旬夜でも岩肌が凍結するようなことはなく、午後9時頃に頂上に到着した。神戸ほどではないが、綺麗な夜景を見下ろすことができ、海には漁火も確認できる。そうこうするうちに、西風で雲がのいて、丸い月が姿をあらわした。そして、「木刀上下振り呼吸」で、まず水平線を垂直に斬る心持ちで数回ゆっくり振り、次に月を縦に斬る心持ちで数回振り、最後に山頂地面の白い砂に映った自己の影の正中線を斬る心持ちで数回振った。樹木の精気を含んだ涼しい風が、鼻から体内を突きぬけ、心地よい。その後、自分の考案した素振りを6種類×20本、3人で繰り返す。最後は、動きをチェックしながら、交代で組太刀を行なった。

 帰りはLEDライトありで下る予定だったが、月が照っている分、登りよりも明るくなったので、結局ライトなしで、足裏の感覚を研ぎ澄ませて下山する。以前独りで登ったときは、事故の場合の連絡等を考えて、慎重過ぎるほどの心理状態だったが、今回は会話をしながら、楽しく夜の山歩きと稽古が楽しめた。すぐに登れる低山が、近くにあって幸福だと思う。

 今までは、屋外での夜間稽古の意味合いについて、視覚情報が減少する分、足裏の感覚や、木刀から手の内を通じての相手の動き、音や平衡感覚、風の流れ等に鋭敏になることが肝要だと思っていた。今になって思うのだが、人間は通常、緊張したり興奮したりすると瞳孔が開く。しかし、夜の月明りに照らされながら、樹木に囲まれたところに立つと、ものすごくリラックスした気分、沈静状態になる。精神が落ち着いているのに、暗さのために瞳孔が開いた状態で稽古することにも、何らかの意義があるのではなかろうか、と考えている。