前回、述べたように、尾崎豊は他の誰も真似のできないアーティストであったし、僕も大きな影響を受けた。しかし、高校生当時より知識量の増えた現在の僕が、その歌詞やMC等を振り返ると、哲学的には詰めが甘いと言わざるをえない。彼は他のアーティストには書けない歌詞を残したが、ロゴスの人と言うよりは、パトスの人だった。哲学的と言うよりは、宗教的だった。

 この辺りの事情は、僕の合気道に対する経緯と、似ているかもしれない。僕が「合気道」に惹かれたのは、他の武道・格闘技よりも「哲学的な何か」を感じたからだったのだが、開祖・植芝盛平の「合気神髄」や「武産合気」を読んでみると、「哲学的」と言うよりも、「宗教的」であり、「オカルト的」であり、「形而上学的」であることに気付いた。

 かつて、尾崎豊は、「LOVE WAY」の中で「真実なんて、それは共同条理の原理の嘘」と叫んだ。OZAKIファンの間では、この歌詞を評価する声が多い。それに対して、「LOVE WAY」の収録されたアルバム「誕生(BIRTH)」発表当時のプロデューサー、須藤晃は、「歌詞を難解にするな」と、幾度も助言していた。そして、須藤晃が携わらなかったラストアルバム「放熱への証」では、さらに歌詞の難解さが増している。

 僕が知りたいのは、本当に「共同条理の原理の嘘」と言う術語が、哲学の世界に存在するのか、それとも尾崎豊の造語なのかと言う一点に尽きる。現在のところ、尾崎豊の著作以外で、「共同条理の原理の嘘」あるいは、「共同条理の原理」と言う言葉に、僕は出会ったことがない。ただ、尾崎豊が吉本隆明の「共同幻想論」を愛読していたことは判明しており、この「共同幻想」と「共同条理の原理の嘘」の間には、何らかの関連性が存在しているのかもしれない。

 広辞苑第五版で、「共同」と引くと、「①二人以上の者が力を合せること。②二人以上の者が同一の資格でかかわること。」とある。同様に、「条理」を引くと「①物事の道理。すじみち。②自然を支配する、対立物統一の法則性。」とあり、「原理」と引くと「①ものの拠って立つ根本法則。認識または行為の根本法則。②他のものがそれに依存する本源的なもの。世界の根源、ある領域の事物の根本要素。」とある。つまり「共同の道理の根本法則の嘘」と言っているに等しく、あまり褒められた表現とは言いがたい。「条理」と「原理」の言語の示す領域が、あまりにも似通っているのだ。

 また前回指摘したように、耳から聞く音楽に、「口語」ではない「文語」を詰め込む問題も存在する。文字情報としての「共同条理の原理の嘘」は、歌詞カード等を見直すから、価値を感じるのであって、耳から「キョウドウジョウリノゲンリノウソ」とハイスピードで入ってきたことろで、瞬時にその語の意味と価値を味わえるだろうか?

 僕自身、大学生当時にこの「LOVE WAY」を初めて聞き、「共同条理の原理の嘘」を含むその歌詞に、「何だかとんでもない曲を聞いてしまった」と言う戦慄に近い感覚を覚えた訳だが、現在最も気になるのは、「共同条理の原理の嘘」の出自である。そして次に、この「LOVE WAY」に、「般若心経」等の仏教経典を読み上げるときに近いビートを感じる点である。

 

 

※参考リンク先

尾崎豊関係の記事 まとめ(改)』

https://ameblo.jp/musyaavesta/entry-12563306779.html