浅田次郎のエッセイを読んでいたら、ぽっぽや の話から 小説と映像 の話にいたる中で、
「映像と小説との文化的な相関関係は、私たち映像世代の作家が真剣に考えねばならない問題であろう。
かつて映画少年であり、またテレビっ子と呼ばれる私たちが小説を書き始めたとき、小説はおのずと変質するのではあるまいか。またその文化上の座標を、改めることになりはすまいか。(中略)
映像がこの世に存在しなかった時代の小説家たちは、いったいどのように小説を書いたのだろう。
広大無辺の、それこそ宇宙大の時間と空間とを併せ持ったイマジネーションの世界。スタンダールもバルザックも紫式部も上田秋成も、そういう巨大な世界で物語を紡いでいた。
しかし私たちは頭の中に平面的なスクリーンやブラウン管を仮想し、そこに映し出される場面をデッサンすることで、小説を書こうとする。そういう環境の中に育ち、いわばそうした社会教育を受けてしまったのである。」(ひとは情熱がなければ生きていけない)
・・むかしのひとは何もないところから自分のイメージの世界とまわりの世界から小説などを書き上げた。しかしわれわれはやはりもの書く時、頭の中にTVや映画の様な映像を思い浮かべそれを文字にしているのではないか?少なくともあっしはそうだと思う。おのずと文章も映像っぽくなる。
浅田さんはそれになれてはいけない、昔の物書きにもどらねば・・、本来の特性を取り戻さねば、とのたまう。確かにねぇ。
話は飛ぶが、ある高名な脳の医者が認知症の人の頭の中は空だ、的な発言にそうではなく全く別の世界が確固としてある、と反論する記事を少し前読んだ。
日頃の介護の中で、そして浅田氏の考えを読み、自分の中にもある映像的思考の世界から見ても認知症の人間の頭の中には自分の括弧とした世界があると思う。その中で、1+1=2、2+2=4、4+4=8、8+8=16,16+16=32とはっきり組上げられている。そこにまとも(と思っている)な我々が問うと全くのうそを、いけしゃーしゃーと真顔で言いきるのである。自分の世界で行った所は揺ぎ無く行っているのだ。昨日は家にいたやん。と言う物理的な実存在を言うだけ無駄なのである。
嘗ては 恍惚の人 も少し前は ボケ老人、、もっと前はX人。今は・・迷惑な自由人?
あっしの場合、仕事してる時(数字を追っているとき他)でも、小説を読んでいる時にもなぜかあまり意味のない風景画ずっと浮かんでいる。知らない所ではなく、いつも通る何の変哲もなく、そこで立ち止まったり,車から降りたこともないようなところの風景。心象なのか?それが時々変わる。こないだまであそこの風景やったのに、最近はあそこやなぁ・・。と気づく。なんなんだろうねぇ。読んでる小説の中で
男と女が喫茶店で話してる場面でも、それを映像化したイメージではなく、別の風景が。
そしてそこがいつか自分の世界になりそこに住んで、周りから「!!?」って。
今、TVが10年先60歳以上の人の10人に1人が・・と流している・・。
「映像と小説との文化的な相関関係は、私たち映像世代の作家が真剣に考えねばならない問題であろう。
かつて映画少年であり、またテレビっ子と呼ばれる私たちが小説を書き始めたとき、小説はおのずと変質するのではあるまいか。またその文化上の座標を、改めることになりはすまいか。(中略)
映像がこの世に存在しなかった時代の小説家たちは、いったいどのように小説を書いたのだろう。
広大無辺の、それこそ宇宙大の時間と空間とを併せ持ったイマジネーションの世界。スタンダールもバルザックも紫式部も上田秋成も、そういう巨大な世界で物語を紡いでいた。
しかし私たちは頭の中に平面的なスクリーンやブラウン管を仮想し、そこに映し出される場面をデッサンすることで、小説を書こうとする。そういう環境の中に育ち、いわばそうした社会教育を受けてしまったのである。」(ひとは情熱がなければ生きていけない)
・・むかしのひとは何もないところから自分のイメージの世界とまわりの世界から小説などを書き上げた。しかしわれわれはやはりもの書く時、頭の中にTVや映画の様な映像を思い浮かべそれを文字にしているのではないか?少なくともあっしはそうだと思う。おのずと文章も映像っぽくなる。
浅田さんはそれになれてはいけない、昔の物書きにもどらねば・・、本来の特性を取り戻さねば、とのたまう。確かにねぇ。
話は飛ぶが、ある高名な脳の医者が認知症の人の頭の中は空だ、的な発言にそうではなく全く別の世界が確固としてある、と反論する記事を少し前読んだ。
日頃の介護の中で、そして浅田氏の考えを読み、自分の中にもある映像的思考の世界から見ても認知症の人間の頭の中には自分の括弧とした世界があると思う。その中で、1+1=2、2+2=4、4+4=8、8+8=16,16+16=32とはっきり組上げられている。そこにまとも(と思っている)な我々が問うと全くのうそを、いけしゃーしゃーと真顔で言いきるのである。自分の世界で行った所は揺ぎ無く行っているのだ。昨日は家にいたやん。と言う物理的な実存在を言うだけ無駄なのである。
嘗ては 恍惚の人 も少し前は ボケ老人、、もっと前はX人。今は・・迷惑な自由人?
あっしの場合、仕事してる時(数字を追っているとき他)でも、小説を読んでいる時にもなぜかあまり意味のない風景画ずっと浮かんでいる。知らない所ではなく、いつも通る何の変哲もなく、そこで立ち止まったり,車から降りたこともないようなところの風景。心象なのか?それが時々変わる。こないだまであそこの風景やったのに、最近はあそこやなぁ・・。と気づく。なんなんだろうねぇ。読んでる小説の中で
男と女が喫茶店で話してる場面でも、それを映像化したイメージではなく、別の風景が。
そしてそこがいつか自分の世界になりそこに住んで、周りから「!!?」って。
今、TVが10年先60歳以上の人の10人に1人が・・と流している・・。