ある日の僕と整体の先生の会話。
僕「先生の師匠的な人っているんですか?」
先生「いますよ」
僕「その方はやっぱりかなり元気なんですか?」
先生「元気・・・ですね。もう亡くなっちゃいましたけどね。」
僕「こういう整体とかを極めた人って"仙人"みたいなイメージがあるんですよ。」
先生「・・・自分のことはね、難しいですよ。人の体は見れても自分の体はね、、、分からないもんですよ。」
何気ない質問だったのですが、すごく大切なお話を聞けた気がしました。
この先生自体、ゴッドハンド的な人なのでその師匠ってなると、もうとんでもないんじゃないかと
僕は漫画みたいな予想をしていたわけですが、
現実は
"自分のことはね、難しいですよ。人の体は見れても自分の体はね、、、分からないもんですよ"
そんなレベルまでいってもそうなのか、と。
どんな超人でも「人に力を貸してもらう」ということになるようです。
「一生勉強」ともおっしゃっていました。
果てないですね。
果てないからこそ
自分も不完全(果てまでの途上)で大丈夫なんですね。
不完全なままでも他者貢献していくことが大切なんですね。
不完全な自分の他者貢献でも、相手にとってみれば
それは完全な貢献に見えたりするようです。
そういえば、いつかPINCH COXのステージを見たときも同じようなことを感じていました。
解散すると決まった彼らのライブ、正直なところは極限の集中力で極限のモチベーションでやれるものではないと思います(実際どうかというよりは理屈で考えたらそうじゃないかなって)
ヴォーカルの人も「声が出なかった」とか実際そんなコメントもされていましたし、
たぶん100点のステージではなかったのですが、
観客の僕にとっては100点だったんですよね。最高のパフォーマンスを見せてくれました。
やっぱりこういう大切なことは忘れてしまいますね。笑
言葉にしておきましょう。
「不完全な自分のままどんどん他者貢献していく。」
いったんここで記事終わり。
【補足】
いろいろなことをとにかく理屈ばかりで考えていたときに、こういう話を聞くと僕はすぐ
「よっしゃ、とにもかくにも他者貢献だ」ってしゅぴーんって飛んで行っちゃってたのですが、
それは違いますね。まず"自分"ですね。
自分が「ある程度、元気で、幸せ」っていうのが必要条件で、まずそこだと思います。
想像してみてみればわかるのですが、
病院に行ったら、診察室の奥の方からヨボヨボのおじいちゃんが杖を突きながら出て来て
「治しますよぉぉぉ~~~~」声も手もぷるぷる震わせながら・・・
志村けんです。
これはちょっと貢献してもらう気持ちになれません。「逆に大丈夫ですか?」みたいな気持ちになっちゃいます。
例は極端ですが、自分元気じゃないとやっぱり貢献できないですよね。
(気持ち的にも貢献したいって思いが沸いてこないと思います。めんどくさいなあ、みたいな。)
まずは自分です。
そして元気とか幸せは、手に入れるものではないですね。
元気 は 元の気 と書きますから パワーアップというよりただの回復。元に戻ること。無理をやめることですね。
「手に入れる」というよりは「思い出す」ものです。
とは言え、世の中の側にそういうムードがないので、"自然に"というのはなかなか難しいかもしれません。創り出さないと。
人に助けてもらうのも効果的ですね。(自分の体は自分じゃわかりませんのでね。仙人ですら。)
幸せも「手に入れるもの」ではなく「そこにあるもの」「感じるもの」ですね。
○○したら幸せというよりは、いまある幸せに気づくことですね。
隠れているんですよね。心にいろいろ余計なものが覆いかぶさっていて、感じられないというか。
「部屋が散らかっていて探し物が見つからない」状態に近い気がします。
剥がして、剥がして、その下に「あった!」みたいな。
幸せじゃないっていうのは何かが足りないわけじゃないと思います。
「心の中をいかに何もなくできるか」ですかね。
たいてい、荷物いっぱいですからね。
他者貢献の気持ちが沸いてこないなら、まずは
しっかり休んで、
環境を心を整えて、元気になって
そこから他者貢献を始めるといいのかなと思います。
そしたらプラスの循環に入って行って何とかなっていく気がします。