クラシック演奏と即興演奏・作曲の相違と共通点に関しての一考(後半) | 自給自足ハーピストのよもやまブログ

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クラシック演奏と即興演奏・作曲の相違と共通点に関しての一考(後半)

(2)共通点と教育への提言:無限の美の可能性の探求

 

 真の音楽探究においては、マクロとミクロの両方向の探究が必要になります。クラシック演奏では、特定の楽曲に内包される美への洞察力を深め、その美を徹底的に具現化するために心身の能力を修練するミクロな方向性での探求が求められ、編曲やジャズの即興演奏では、一般化された音楽に関する知識や経験に基づく洞察により、リズム、メロディー、和音、音色などの音楽の構成要素の組み合わせとそれが生み出す印象に関して、マクロ方向での探求が求められます。それらに加えて、音楽経験により培われた音楽的な直感が働くようになると、作曲や即興演奏の起点となる音楽的なアイデアをゼロから生み出し、それを楽曲として発展させることができるようになってきます。そして、音楽探究は、さらに通常のドレミファソラシドという西洋音階システムの枠組みを超えたありとあらゆる音階、楽器として使えるありとあらゆる音色の研究など、無限にマクロの方向に広がりますが、それと同時に、演奏の瞬間においては、その瞬間に演奏している音楽の美を徹底的に追及するミクロなアプローチも必要とされます。

 

 音楽の探求においては、ミクロに向かう場合もマクロに向かう場合も、ともに無限の美の可能性への探求であり、突き詰めると、どちらの探求においても、美の深遠な神秘へと導かれて行きます。人間を研究する場合でも、人体の構成要素をどんどん細かく探求する場合には、原子の中に果てしない世界に宇宙の神秘を見出し、人間の宇宙の中での存在意義を研究する場合には、大宇宙に無限の神秘を見出すことになります。この一見逆方向に向かう探求も、ともに真理の探求である点においては優劣がないのと同様に、音楽の探求においても、ミクロの方向、マクロの方向の探求に優劣の差はないと考えます。

 

 楽曲という枠組みの中でミクロの探求をすることを専門とするクラシック演奏家が、作曲や即興に関して門外漢であるということは、原子物理学者が人間の生態系におけるダイナミックな環境相互作用に関して無知であり得るのと同様に、恥じることではありません。また、その逆に、和音の組み合わせやスケールの運用などのマクロな探求を専門とするジャズ演奏家が、ピッチやアーティキュレーションなどの細かな演奏表現において雑な部分があったとしても、それはある程度仕方がありません。同じ音楽家であっても、専門分野と探求の方向性が異なるのですから、当然のことながら使い慣れた方法論も持ち合わせている能力も異なるのです。

 

 優れたクラシック演奏家がお粗末な即興演奏や作曲しかできない、あるいは、卓越したジャズミュージシャンがクラシック曲で全く的外れな演奏をしてしまうのは、探求の対象にふさわしくない手法とアプローチを用いているからと考えられます。つまり、前者は天体を研究するのに顕微鏡を用い、後者は細胞を研究するのに望遠鏡を用いているわけです。

 

 しかし、このような相違点はありながらも、クラシック演奏、作曲、編曲、即興演奏のすべてが同じく音楽活動である限り、最終的には、実際の演奏によって音として聴こえる形で音楽が具現化されなくてはなりません。その際、それぞれの探求によって得られた成果(音楽作品)の評価は、科学研究のように数値化されたデータや論理的な整合性に基づいて知性的に行われるわけではなく、表現された音楽に美が感じられるか否か、感情と感覚を通してその判断が行われます。つまり、音楽の探求では、ミクロ、マクロのどちらにおいても、感情と感覚による審美力が要求されていますから、両者の間には音楽に関わっているもの同士として深く理解し合える共通の素養もたくさんあるわけです。

 

 現代においては、ミクロとマクロの両方向で音楽の探求をする音楽家は、どちらかというと少数派だと思います。クラシック演奏家として楽曲の無限の美をミクロの方向で探求することに喜びを感じる方もいれば、作曲家、即興演奏家としてマクロの方向での探求に喜びを感じる方もいるでしょうから、それぞれが得意とするものを専門とすることは、ごく自然なことです。しかし、せっかく音楽に関わる幸運を与えられたのだから、ミクロとマクロの両方向への探求にたずさわり、音楽の世界の無限の神秘を両方向で体験することができたら、より素晴らしい音楽人生を送れると思えるのです。

 

 さりながら、クラシック演奏と即興演奏・作曲の両方においてスペシャリストとして音楽活動を同時進行させることは、そこで要求される素養の本質的な違いが大きすぎるために、実際には大変難しいと感じます。2006年から2010年まではプロとして二足のわらじを試みてみましたが、ピアニストのキース・ジャレットの言うように「二つの全く異なる世界」に同時に関わることは、正気の沙汰ではないと判断し、現在は、即興と作曲を公の音楽活動とし、クラシックの演奏は個人的な研究活動の一環として取り組んでいます。

 

 しかし、学生さんや修業時代にある若い音楽家の皆さんには、「将来どちらの道のほうが喰える可能性が高いか?」などというしみったれた考えにとらわれることなく、ミクロ/マクロ両方の方向で積極的に音楽に関わってもらいたいと思います。クラシックの先生の中には、生徒がジャズやロックを演奏することで「テクニックが荒れる」と判断し、彼らをクラシックのみに専念するように強いる方もいらっしゃると聞いたことがあります。確かに、ジャズ的なフィーリングでクラシックを演奏すると、場違いな強弱などが飛び出して、演奏の優美さが失われるという側面はあると思いますが、それはテクニックが荒れているためではなく、クラシック演奏に即興演奏家としてのマクロ方向での視点を持ち込んでしまうために、演奏中の意識が音楽の構造やコード進行に向いてしまって、タッチやアーティキュレーションへの意識が薄くなり、結果として雑な演奏になるということに過ぎません。ですから、子供が音楽のミクロ/マクロの探求の本質的な違いを理解した上で、ジャズとクラシックの両方に取り組むなら、ネガティブな問題は起きないはずです。確率的には、音楽家を目指す子供の半分くらいはマクロ方向での音楽探求に向いている素質を持っているわけですから、本人がどちらの探求を専門とするのかを判断できる時期に達するまでは、両方の可能性をオープンにした音楽教育がなされることが理想的ではないでしょうか。