ヤギの屠殺〜命を奪うこと | 自給自足ハーピストのよもやまブログ

自給自足ハーピストのよもやまブログ

ハープ奏者、作曲家、即興演奏家、古佐古基史が、カリフォルニアの大自然の中、静かなファーム暮らしと音楽活動の合間につづる徒然なるままのブログ。

ヤギの屠殺〜命を奪うこと

 

 

 ファームでは、動物や植物の生命を育むという側面と、自分で世話をして育てた命を奪って「生体」を「死体」に変えて「食料」を調達するという側面の両方を、経験することになります。肉を得るためには動物を殺さなくてはならないこと、野菜を手に入れるためには植物を殺さなくてはならないことは明らかです。ところが、乳製品については、一見すると生き物を殺すことなく手に入れられるため、動物愛護の観点からベジタリアンをされているみなさんも乳製品はOKと考えている方が多いのですが、 ファーム全体の運営の観点から見ると、 それは正しい認識ではありません。

 

 例えば、ミルクをとるためにヤギを飼育する場合、雌ヤギがお乳を生産できるようにするためには、妊娠、出産をさせなくてはなりません。その結果、メスだけでなくオスも50%の確率で生まれてきます。メスのうち、雌のヤギはそのままキープするか、他所のファームにミルク用のヤギとして売ることになりますが、オスに関しては、数頭の種ヤギをキープするのみで、種ヤギにならないヤギは生まれて間もなく去勢し、食用にするためにしばらく育てた後、数ヶ月で屠殺することになります。そのため、ヤギのミルクの副産物として、必ずヤギの肉が生産されざるを得ないのです。

 

 ファームに育った妻からは、動物の屠殺が嫌だったら、家畜は飼わない方が良いと釘を刺されていましたから、ファームを始める段階で、この冷徹な原則については随分と考えました。オスを食肉用としない選択肢がないのだろうか...と。

 

 ペットにする?食料を生産するファームで、家畜動物をペットとして飼って食料を浪費させるという選択肢はありえません。

 

 種ヤギとして売る?どこの農場でも、新しい血統を導入する場合によそのファームとオスの売り買いをするのですが、数頭の雌に対してオスは1頭でも十分ですから、どうしても売り切れないオスが出てきます。去勢していないオスの肉は臭みがあって食肉としも調理が難しく、群れのなかでの争いのタネともなるので、売れ残ったオスは、結局厄介ものとなってしまいます。

 

 去勢して他所のファームに売る?去勢された家畜を買った農家では、結局そこで屠殺して食べるしかないのだから、売ることで直接自分の手を汚さないというだけで、結果は同じです。

 

 ペットとして売る?毎年、そんなに家畜動物のペット需要があるはずがないし、食料生産を営む過程で食料を消費する口を増やしてしまっては本末転倒という気もします。

 

 結局のところ、ファームを始めたからには、やりたくないことは他人任せにして、おいしいところだけを楽しむというような偽善的な関わりではなく、そのプロセス全体に責任を持って取り組む覚悟をし、屠殺というできれば避けたい行為も、自らの手で行わななければならないという結論に達しました。

 

 ただ、理論的にそのような結論づけることと、決断して実行することとは、別のことです。

 

 保健所などでは、動物の命を取ることを「処分する」あるいは「殺処分」というような言い方をしますが、実際には、生き物を殺すことは事務的な「処分」とかけ離れた血なまぐさい行為で、精神的には真剣な儀式にも匹敵する経験です。ここでは、「殺す」というニュアンスを安易に和らげた「処分」という表現ではなく、あえて「屠殺」という表現を使うことにします。

 

 最初は、知り合いのファームで育った羊や自分で育てたニワトリなどの小型動物を、屠殺に手慣れた方から指導をうけながら経験し、その後、道具を揃えて、自分のファームで妊娠から出産を経てこれまでずっと可愛がって育ててきた動物の屠殺できる準備を整えました。ここで少し、自分のファームで育てたヤギを初めて屠殺した時の状況を描写してみたいと思います。

 

 その日は、去勢してある1歳9ヶ月のオス1頭を屠殺しました。実は、生後数週間でこのヤギを去勢した時に、種ヤギにはしないことが決まっており、いつかこの日がやってくることは避けられないことだと分かっていたのですが、なんとなく気持に踏ん切りがつかず、先延ばしにしておりました。その年は、子ヤギの死産が多く、親ヤギも1頭出産の時に失っており、動物の頭数が増え過ぎるという状況にはならなかったので、それでもなんとかなっていましたが、去勢したオスは、肉が柔らかく臭みが少ない若い子ヤギのうちに屠殺して食べるのが通例ですから、本当は昨年のうちに屠殺しておくべきだったのです。これまで先送りにして来たことは、ファームとしては賢明ではない選択でした。

 

 しかし、いよいよ雌ヤギの種付けをする秋となり、次の夏までに3頭の雌からそれぞれ数頭の子ヤギが生まれることを見越し、また、 食べ物の少ない冬に余分な飼料の浪費を避けるためにも、去勢されているオスを屠殺する決断を迫られることになりました。その日に屠殺しない別の去勢してあるオスヤギは、生後およそ6ヶ月、愛嬌のある可愛らしいヤギではありますが、残酷な言い方をすれば「そろそろ食べごろ」になっていますので、こちらもすぐに屠殺しなくてはなりません。

 

 その日屠殺したヤギは、ここで最初に生まれた4頭のヤギのうちの一頭で、ちぢれ毛が特徴的だったので、生まれた時に「カール」と名付けて育てていました。毎日餌をやり、折りに触れて撫でてやり、飼い主としての信頼関係を築いていたので、餌を持って近寄ると喜んでこちらに寄って来ます。そうやって飼い主を信じ切って安心して餌を食んでいるヤギをいきなり押し倒し、ナイフで首を切って殺すのですから、実行するにはそれなりの心の準備が必要です。首を切ってから出血死するまではほんの数分間ですが、その死に様を眺めている時間は本当に長く感じます。自然死や事故による死ではなく、自らの手で意図的に危害を加えた結果死んでゆく動物を見るのは、「可愛そう」とか「辛い」という感情では語りきれない、非常に特異な経験です。

 

 普段は、食材としての肉を見て動物の生命を連想することもほとんどありませんから、ただ当たり前に「旨い、旨い!」と喜んで肉を食らっています。しかし、さっきまで元気いっぱいに飛び跳ねていた動物が動かない死体、つまり肉の塊となる変化は、生命の誕生と同じくとても神秘的でドラマティックな現象で、生命の神聖さを強く感じると同時に、その神聖なものを奪って肉の塊を得ようとしている自分の生存本能に対する罪悪感のようなもの、あるいは、そのような人類生存の宿命に対する感情的な矛盾を感じさせられます。

 

 このような食料の調達と表裏一体にある殺傷行為にともなう感情的な矛盾は、おそらく生きている限り解消しないように感じています。むしろ、その辛い感情的な葛藤が湧き起こるお陰で、自分の生存のためにこれまで生存を絶たれた数知れない動植物の生命に感謝しつつ、自分の生をそれに値するように一生懸命に生きる大切さを思い起こすことができるのかもしれません。