手話講座開講式。

  受付。

  学習者の受付だから、手話もするけど声でクラス

 の受付をする。

  以前、受付に来る度に感じる事があった。

  受付にいる方が何も伝えてこない。

  受付をする方がコミニケーションを取りに行く

 のが当たり前というように。

  でも、私は違う考えがある。

  受付する側は不安があるのだから声をかけて

 くれるだけで、とても安心する。

  私は安心できるように、こちらから声をかける。

  こういう時も、皆と考えが違う。


  開講式は役所の方もいるから声もついているけど

 手話が中心。

  手話だけでも内容が分かるようになってきた。

  一字一句間違えずにではないけど全体的な内容は

 分かる。

  少しは成長しているのかな。

  この全体的な内容を何となくではなく、きっちり

 綺麗な日本語に替えられるようになるには何が

 足りない?

  語彙力・日本語力・そしてもちろん読み取りの

 技術。

  まずは読み取れなければ意味がない。

  その方の言っている事を読み取って、皆が理解

 できるように日本語にする。

  誰もが理解できるようにするのが日本語力。

  うん。にっこり

  読み取りをたくさんやらなくては、色々な人の

 表現を日本語にできるように。

  表現方法の違いで、その人その人の個性までも

 読み取って日本語にしていく。

  今は手話表現の方が疎かになってる。


  本当はコミニケーション。

  手話べりがしたい。

  

  でも身近なろう者と上手く話せない。

  理由は…

  試験だと感じてしまう。

  失敗したら間違えたら、通じなかったら…って

 思って上手く表現できない。

  これは同期に対しても全員ではないけど周りの  

 先輩に対しても同じ気持ちになる。

  この人たち、私を省こうとしているんだよね。

  必要としてないんだよね。

  私の存在なんて。

  私が発言すると魔の時間ができる。

  共感なんて存在しない。

  あたりも強い。

  私に対しては、そう接したいんだね。

  分かった。

  

  でも、私は誰かが困っていたら声をかけたい。

  私の立場が、こうだから、ああだからなんて

 どうだっていい。

  最大限に、その方の困り事に親身になりたい。

  それぞれの人に対応できる人間になりたい。


  そう思う根底は、私自身が誰かに救ってもらい

 たいと思っているのかもしれない。

  誰も私を受け入れてくれない理解してくれない。

  それだから愛されるなんて夢のまた夢。

  誰かを助ける事によって自分を助ける。

  救われる。

  そこまでも考えずに目の前の人を助けたい。

  私はただそれだけだと思う。

  

  今後クラスでは発言しないかも。

  全てが敵に見える。

  あのとんでもない魔を生み出しそうだし。

  本当に苦しかってら休んでも良いと思おう。  

  何故か劇発表会で狂言をやろうとしているし。

  勝手に皆で盛り上がってるし、私には理解でき

 ない。

  手話劇が嫌いとか狂言が嫌いというのではない。

  なぜ私たちが手話劇をやるのかを考えてテーマを

 考えた方が良いと思うから。

  手話歌か賛否あるのと同じく狂言にもあると思う

  手話劇をやる意味は、共に手話技術を磨き、

 共に考え制作していくというのが大事だと思う。

  そして、それは見る人に理解してもらえるように

 作る必要がある。

  身内だけが盛り上がるだけに作るわけではない。

  でも、私がそんな事を言ったら、また波乱を

 起こす。

  だから言わない。

  言わないが美徳。

  そして私には、影に隠れたものが回ってくるん

 だろうな。

  まぁ、それでよい。

  みんなには期待しない。


  私は私に必要な事をやろう。

  それしかない。

  自分で自分の道を進もう。ドキドキドキドキドキドキ