”旅に出る理由を見つけた なう”
もちろん、そんな歌詞を彼らは歌ってはいない。でも、くるりはもう一度旅立ったのだ。
今作を聴いて、まず感じてしまったのは、現代的なロックのパイオニア”ビートルズ”の存在だった。言うまでも無く、岸田繁が今一度勉強してビートルズ的な作品を作った訳ではない。音楽の道を遡れば、自ずと辿り着く場所であり、そもそも、彼の中には既にあった風景だ。”輝かしい未来は胸の中で咲く花のよう そこで揺れたものは魂の行方と呼ばないか”(「魂のゆくえ」)旅先で彼は、ついに見つけたのだろうか「ばらの花」を。
音楽的ボキャブラリーが爆発した、彼らの到達点『ワルツを踊れ Tanz Walzer』から、集大成的な『坩堝の電圧』を経て生まれたのが今作。
岸田が求める至高の音楽とミュージック・シーンとの付き合いはいつも”波は満ちたら心は引いて 心が満ちたら 波は静かに”(「麦茶」)という、風にゆらゆらと揺らぎつつ進んでいくものだったのだろう。音楽として最高級品を作れば作るほど、自身の心は見たされていくのに、ポップ・ミュージックというオモチャ箱からは、溢れてしまう磨かれた宝石達。それを許せない、岸田と音楽との戦いは続き、究極の裏側の行き着いた先が”魂のゆくえ”だったのだ。その疑問が解かれないまま、全ては3.11以降に飲み込まれたと言えば、安易過ぎるだろうか?でも事実そうなのだ。全てが変わり、くるりが、自身を総括した結果その先の地平線で何をみたのか。それは、やっぱり音楽だったのだ。
もう一つ、本作ではくるりの音楽的な初期化を感じることが出来る。これまで、くるりが歩いて来た道を音楽的進化や細分化だとするなら、今の彼らは新しいものを吸収したり、変化出来る可能性をまだ秘めている、未分化状態のくるりに至っている。その結果、色んな音楽的要素が当たり前のように入ってくる。だから「ロックンロール・ハネムーン」のような日本語ロックの源流である、ハッピー・エンドを彷彿させる曲が今の彼らから出てくるのだ。”ですます”ロックの継承者としては当然押さえるべき点だったのだろう。
『THE PIER』は波止場という意味があるが、くるりは今どこかの波止場に立っているだろう。世界に旅立つのか、母国に帰るのか、今の僕はまだ知らない。しかしながら音楽に国境はない、岸田が一番良く分かっていることだ。彼らの面白いところは、今作のように洋楽的なアプローチをすればするほど、母国的な匂いが漂ってくる。このカラクリはくるりだけが持ってると僕は思っている。
彼らは今一度、音楽の全ての源流に戻って来たのだと思う。そこではビートルズだろうが何だろうが、世界の音楽が湧いている泉がある。でも、彼はそこにとどまるつもりは無かったのだ。”いつまでもこのままていい それは嘘 間違ってる”(「ワールズエンド スーパーノバ」)くるりは再び旅立った。置き手紙には ”僕らは音楽を捨てられない”とだけ書いてあったのだ、そう記憶している。