井伏鱒二さんは卒業かな…と、おもっていた。
ところが、そうではなかった。
きっかけは、アンソロジー小説集収録の短篇「うなぎ」(ちくま文庫)を読んでからだ。
うなぎを題材にして人世の苦衷を浮かびあがらせる手腕に脱帽したのである。
それから「荻窪風土記」を読み返してその情報量の豊富さに舌を巻いた、と先日ここに記した。
その情報量のベースは知己からの書簡だったり、杉並区の地誌だったり、80年代前半にはまだ健在だった鳶職の長老だったりするのだが、井伏さん自身の記憶力がまた並外れているのである。
しかも、記憶している光景を細部にわたってデッサンできる筆力が異様に高い。
井伏さんには到底、かなわない。
が、記憶に関してだけは、わたしもまあまあいけるほうだろう。
きのう、3歳のときに観たクイズ番組のトニー谷のことを書いたが、にやけた笑顔まで憶えている。
脳による虚構化は免れないが、大筋は狂っていないとおもわれる。
だから、せいぜいブログ書きに励んで認識機能低下現象に抗おうとおもう。
井伏鱒二は、1898年生まれ。
19世紀生まれである。
同世代が、1899年生まれの川端康成と石川淳。
石川淳は井伏さんの近所、杉並区天沼に住んでいた時期があるのだが、井伏・石川で呑んだことはないようだ。
石川淳は酒乱だから井伏さんが避けていたのではないかとおもう。
一方で、石川淳は、太宰治とは数回呑んでいる。
戦後まもなくのことで、このころの石川淳は船橋に住んでいたはずだが、吉祥寺まで出張って太宰と呑み、酔いつぶれた太宰を担いで三鷹の家まで送って行ったという。
左手の井の頭の森に光物閃いてー冬の稲妻をこう形容するのが石川淳タッチーという文章が鮮やかだった。太宰治追悼文だから石川淳なりの哀しみが際立っていた。
小説はどう逆立ちしたところでかけない。
が、エッセイ・コラムふうの雑文なら鼻唄まじりに1テイクでかける。
ブログ書きをライフワークにしてもよい。
本は、多和田葉子さんのエッセイ集「言葉と歩く日記」(岩波新書)をよんでいる。
ドイツでは夏目漱石はほとんど知られていない。
しかし井上靖は文藝好きにかなり読まれている由。
え、と驚いたが、バブル前夜のころを思い起こせばおもいあたることはある。
それは次回にでもということで。