ありふれた単語の集まりだけど、その並びで聞くのは初めて、と感じることがある。

「都会は好き?」
と聞き、
「私は都会が好き。」
と言い切る女と出会った。

都会が好きだ、と敢えて発する言葉を聞くのは、すごく新鮮で不思議な感覚がした。
なんだろう。
この違和感。
というか、簡単に通り過ぎてはいけない感じ。
いや、通り過ぎるのは簡単なのだけど、気付いて立ち止まってくれる人をずっと待っているような、そんな思いが潜んでいる気すらしてしまった。勝手に。


背負ってきたものの重み、決断してきた力強さを匂わせる言葉だ、と思う。
彼女にその言葉を発せしめた「過去」に対して、
興味の矛先は強引に向けられる。



普段、人は、都会が好きか否か、という問いはあまり持たない。
「都会」という概念は、あまりに多くを含み過ぎて、それ単体では好きだとか嫌いだとか判断しにくいのかもしれない。
「田舎が好き」と聞けば、自然が好きだったり、人と人との関係性が密だったり、時間にせこせこしていなかったり、何十年来の家族友人に囲まれたりという環境が好きなのかな、となんとなく想像が容易い。(浅い想像とは言え。)
そして例えば「ライブがたくさんあるから東京が好き」「いろんなブランドの商品を売っているから都会が好き」といった具体的な条件付きの言葉なら、よくある気がする。
都会に集まる人は、多かれ少なかれ、特定の目的があって都会を選んでいるのだろう。
だけど、そんな具体性抜きの「都会が好き」というのは、もっと抽象的な話のような気がする。

自分が身を置く場所。
生きる場所。
ひいては、自分の生き方。

その事柄に対し、立ち止まって考え、意志を持って選択したのだろう。
目の前の事象に流され、結果として選ぶのではなく。

その思いに至ったのは、
都会の対極(田舎?地方?)を強く否定したい思いなのか。
文化の集積地として都会を愛するのか。
人がたくさんいる、故に属性が近い人と集うことができるということ。
あるいは、人がたくさんいる、故に自分を見る他者の視線が浅く少ないということ。
「都会」の抽象的な特性はたくさんあって、
どんな思いが、あるいはどんな「過去」が、都会を求めさせたのかはわからないけれど。


どんな人なのだろうな、となんとなく考えている。

春を愛する人は  心清き人
夏を愛する人は  心強き人
都会を愛する人は。