まだ30年そこら生きただけだけど。
でも30年そこら生きてきたところで感じること。

心が動きにくくなる、ということ。
出会す多くのことが、「以前出会したものと似たもの」になってしまう。
一昔前は、例えばオシャレなカフェに入ることが新鮮だった。
オシャレな空間に一人でいること、一人で本を読むこと、煙草を吸うこと、それが一々新鮮な気持ちになれた。
美術館で半日過ごすこと、一人でバーで飲むこと、一々、空間に、そこにいる自分に酔っていたと思う。

最近はといえば、すぐ批評家面をしてしまう。
あー、これはああいうタイプのオシャレぶった店ね、とか。
自分の知っている何かに類型化して世の中を見てしまう。
自分の場合、心が動くには、「新しい何か」が必要なようだ。
それは「新しい空間」ではなくてもいい。
よく見知った空間であっても、内面的に何か新しい感情が生まれれば十分なはず。
それを感じられないのは、自分が動いていないせいか。流れが止まっているせいか。



・・・と、まだ30歳だった頃の私が書いていた。
(下書き保存記事を、他人が書いた文章のように読み返して、何となく共感したのでアップしてみました。)
自分の書いたものに共感して…って、なんてお安くお目出度い人間でしょう。


とはいえちょこちょこと心が動いた出来事もあり。
江國香織さん角田光代さん井上荒野さん、という豪華メンバーのトークイベントに行ったりね。
今をときめく女流作家、仲良し3人組でごわす。

「作家とか、なりてえなぁおい」
と、
「作家とか、なりたかったなぁおい」
の狭間を漂った。

でも光代ちゃんの言ってた言葉「作家になる人の圧倒的な読書量」(というような)が、ずどーんと、そんな甘い考えを簡単に押しつぶす。

や、もちろん光代ちゃんの言葉を批判するつもりではなくて。
その言葉の圧倒的な格好良さの前に、ただただ平伏し、憧れを抱いた訳であります。

勝手に、「おまえは読めるのか、圧倒的な数の本を」と直に挑発されたように受け取り、「やってやりたいよ、おう」(やってやるよ、ではない)とも思った。
でも、それと同時に、私には無理ですと簡単に答え、作家の立場からその言葉を発する光代ちゃんに、敬服するしかなかった、というのもある。

でも小さな抵抗を試みて、3日に一冊くらいのペースでは読書をしてみているここ最近。



ま、そんな経験をしまして、
これって、17〜21歳くらいの頃にはよく抱いていた気持ちだな、と思い出しました。
「憧れ」や「野心」とでも言うのかしら。
めっきり抱けなくなったのも30を超える辺りから。
色んな諦めとともに捨ててきた。

でも、そういうものを50になっても60になっても持てていたら、格好いいんだろうなぁ。