昔から、蕎麦がすきです。

のどごしの良い蕎麦ではなくて、
蕎麦の香りが濃く濃く漂う、
十割の田舎蕎麦がすきです。


最近、蕎麦屋でよく飲む。
それにはいくつか理由があって、
まず一つは単純に、「旨い蕎麦を食べたい欲」が満たされたい気持ち。
それは例えば、「ラーメンを食べたい欲」のような、刹那的だが安っぽい、生物的とも言えるような欲求とは少し違う。


蕎麦の美味しさって、とても地味。
例えば生牡蠣のように、あるいはフレンチの前菜の玉葱のムース的なものやフォアグラのソテーや、お母さんのイクラの醤油漬けや、カワハギの肝醤油のように、
食べた瞬間に  \キャーたまらん!/  \くぅー幸せ!死んでもいい!/  みたいにはならない。
(↑あ、上記は全て私の最高ランクの好物)
食べた瞬間の感動値が飛び抜けて高い、こういった種の美味しさとは違う。
(あぁ、思い出したらこれらがたまらなく食べたくなってきた。…いやいや、でも今は蕎麦の話。)
そう、こういうものって、大概量も少なくて、ちょびっとの中にぎゅっと詰まった美味しさに喜ぶようなものよね。
(ちなみにラーメンに関して言えば、「美味しい」かどうかというよりも、
その瞬間に望む「辛さ・重さ・濃さ」を希望通り満たしてくれるか否か、を評価している気がする。私は。)


でも、我らが蕎麦は違う。
蕎麦の美味しさは、もっと密やかだ。
味覚は決して、強い主張をしない。それが故に香りを楽しませる。
つまり、味が控えめだからこそ、その中にスキッと香り立つ蕎麦香を見つけられた時に、
「今私はとても繊細で美味しいものに包まれている」という幸せがじわーっと沁みわたる、とでも言おうか。
そしてそんな「蕎麦と私」の幸せ時間を、お腹をいっぱいにする間中、ずっと楽しめるのだ。
蕎麦だけに向き合う、静謐な時間。
香りを味わおうとするが故に、味覚も研ぎ澄まされるがよう。

蕎麦は庶民の食べ物であるべきだと思うので、こう呼ぶには躊躇するけれど、
蕎麦の美味しさって、何か高尚さや哲学性すら感じてしまう。
そして最後は蕎麦湯で〆るとかね、もう。考えた人、本当天才。

(あ、つゆも色んな製法があって相当奥深いらしいけど、そこまではまだ行き着いていません)

にしても、
あぁー、蕎麦すき。そして蕎麦ってやっぱり素敵♡


(単純な私は、こうして蕎麦への気持ちを再確認すると、もはや恋愛感情と呼んでもいいような気持ちが高まっている。でも、でも、ここは敢えて次に進もう)


蕎麦屋で飲む理由その2。
東京を否定したい気持ち。

私は蕎麦が美味しい土地で育ったので、やっぱり蕎麦は故郷の蕎麦が一番!と言ってやりたいのだと思う。(誰に?東京に。)
東京なんてさ、オシャレなものも美味いものも何でもあるみたいな顔しやがってさ、高い金ばっか取ってさ。
何だよ東京。食べものって、美味しい水や採れたての旬の素材があるところの方が美味しいに決まってるじゃん。それなのに金と技術にものを言わせて美味しいもの揃えようとしやがって。と。
悔しいから、東京でうまいと言われる蕎麦屋をひとしきり回ってみて、「やっぱり東京の蕎麦はまずいぜ、へっ」って言ってやりたいのだと思う。
(ま、悔しいことに割と美味しい蕎麦屋もあったのだけれど…)


蕎麦屋で飲む理由その3。
蕎麦味噌。

そう、本当は今日、蕎麦味噌のことについて書きたかったのです。
コロンブスの新大陸発見ならぬ、mushlbroomの蕎麦味噌発見。
でも今日はもう力尽きたのでまた今度。

こんな自己満足の長文をお読みいただきありがとうございました。
おやすみなさい。