出張
某学会に出席のため、先週は東京に出張していました。
いつ行っても、東京と愛媛のあまりの「差」に驚きます。そりゃあ、愛媛全県の人口の10倍に達する人があの狭い地域に住んでいるわけで、当たり前ではあるのですが・・・。
さて、東京在住の友人と飲んだりもしたのですが、その時に感じるのは「原発事故に対する切迫感の差」です。愛媛に住んでいると、私も含め周りの人は、正直言って「原発事故は遠い世界の話」のような感じです。原発事故の件が話題に上ることすらまれです。しかし東京の友人はそうではありません(むろん気にしていない友人もいる)。
科学的には東京での被曝量増加が健康に与えるリスクなど無いに等しい、これは疑う余地はありません。しかし、そう説明するほどに被曝の恐怖を主張する友人たちはより頑なになるような、そんな印象を受けてしまいます。科学的な素養はある友人たちばかりなのですが・・・。朝日新聞に「科学者への信頼は震災前後で大きく低下した」という記事がありましたが、なんとなくそれを思い出していまいます。
こればっかりは感情が優先してしまうのも分かります。分かりますが、なぜ世の中に無数にあるリスクのうちで被曝のリスクをここまで過大に捉えてしまうのか、それが私にはよく分からないというのが本音です。物事を客観的に考えることが十分にできる人が、こと放射線に関しては突然客観性を失ってしまう。これは本当に不思議でした。
飲み会はお開きになり、帰りの電車の中でふと気づきました。
近いうちに必ず東京も大地震を経験しますが、それに関する恐怖なり備えなりを、一度として話題にしていない!被曝によるリスクより、遥かに巨大なリスクは眼前に迫っているのに、まるでそんなリスクはないかのように被曝のリスクばかり語っている!
ひょっとして、これは一種の逃避なんだろうか。目の前に迫る巨大な危機から目を背けたいがための逃避なんだろうか。計画停電や断水、公共交通機関の麻痺など、一度地震が起きるとどれほど生活が大変なことになるか東京の人は実感している。そんなことがまた起きる(しかもさらに大規模に)などと考えたくも無い、だから被曝の危機-本質的には巨大ではない危機を-考えて、良しとしてしまっているのではないか。
そう思ってしまい、薄ら寒い感じを覚えた東京出張でした。もちろん何の根拠もありませんが・・・。
いつ行っても、東京と愛媛のあまりの「差」に驚きます。そりゃあ、愛媛全県の人口の10倍に達する人があの狭い地域に住んでいるわけで、当たり前ではあるのですが・・・。
さて、東京在住の友人と飲んだりもしたのですが、その時に感じるのは「原発事故に対する切迫感の差」です。愛媛に住んでいると、私も含め周りの人は、正直言って「原発事故は遠い世界の話」のような感じです。原発事故の件が話題に上ることすらまれです。しかし東京の友人はそうではありません(むろん気にしていない友人もいる)。
科学的には東京での被曝量増加が健康に与えるリスクなど無いに等しい、これは疑う余地はありません。しかし、そう説明するほどに被曝の恐怖を主張する友人たちはより頑なになるような、そんな印象を受けてしまいます。科学的な素養はある友人たちばかりなのですが・・・。朝日新聞に「科学者への信頼は震災前後で大きく低下した」という記事がありましたが、なんとなくそれを思い出していまいます。
こればっかりは感情が優先してしまうのも分かります。分かりますが、なぜ世の中に無数にあるリスクのうちで被曝のリスクをここまで過大に捉えてしまうのか、それが私にはよく分からないというのが本音です。物事を客観的に考えることが十分にできる人が、こと放射線に関しては突然客観性を失ってしまう。これは本当に不思議でした。
飲み会はお開きになり、帰りの電車の中でふと気づきました。
近いうちに必ず東京も大地震を経験しますが、それに関する恐怖なり備えなりを、一度として話題にしていない!被曝によるリスクより、遥かに巨大なリスクは眼前に迫っているのに、まるでそんなリスクはないかのように被曝のリスクばかり語っている!
ひょっとして、これは一種の逃避なんだろうか。目の前に迫る巨大な危機から目を背けたいがための逃避なんだろうか。計画停電や断水、公共交通機関の麻痺など、一度地震が起きるとどれほど生活が大変なことになるか東京の人は実感している。そんなことがまた起きる(しかもさらに大規模に)などと考えたくも無い、だから被曝の危機-本質的には巨大ではない危機を-考えて、良しとしてしまっているのではないか。
そう思ってしまい、薄ら寒い感じを覚えた東京出張でした。もちろん何の根拠もありませんが・・・。