1219年の1月27日は鶴岡八幡宮にて源実朝殿が甥の公暁殿に暗殺された日です。
鎌倉幕府初代征夷大将軍 源頼朝が没した後、跡を継いだのは嫡子源頼家でした。しかし頼家は母 政子や政子の実家北条氏と激しく対立、ついには修善寺に幽閉後殺害されてしまいます。
頼家の跡を継いだのが頼家の弟実朝でした。
実朝は鎌倉御家人の陰謀、対立に巻き込まれ殺された兄頼家の事がトラウマとなり、政治からは努めて離れ、和歌など文化方面に傾倒していきます。
その反面、官位に異常なまでに執着し最終的には右大臣にまで上りつめました。
恐らく官位を得る事で自分の存在を維持しようとしていたのではないでしょうか。
余談ですが、百人一首の、鎌倉の右大臣は実朝です。
そして、運命の1月27日、大雪の中、鶴岡八幡宮にて実朝の右大臣拝賀の式が執り行われます。
式の直前、太刀持ちの役になっていた北条義時は体調不良で役を辞退、代わりに源仲章が太刀持ちの役に就きます。
衣冠束帯の実朝はじめ京から来た公家たちの行列が鶴岡八幡宮の石段を上って行きます。
行列が石段の中頃に達した刹那、脇の銀杏の木から数名の抜刀した僧形の武者が躍り出て実朝の行列に斬り込みます。
斬り込んだ暴徒は源頼家の子 公暁率いる一団でした。
公暁は実朝を捉え、「親の仇‼︎」と太刀を浴びせます。
鎌倉幕府3代征夷大将軍 源実朝は甥の公暁に首を討たれ28年の生涯を閉じました。
実朝を討った公暁は意気揚々と実朝の首を持って姿を晦ましました。
この後間もなく、公暁は乳母である三浦義村の館に向かう途中、三浦義村が遣わせた長尾定景に討たれてしまいます。
因みに長尾定景は長尾景虎(上杉謙信)の先祖と言われています。
鎌倉を揺るがす大事件の裏には執権北条氏と最大の有力御家人三浦氏の暗躍があった…⁈
何故公暁は実朝を討ったのか?なぜ北条義時は直前で太刀持ちの役を辞退したのか?謎多き事件です。
実朝公忌ということで、以前製作したジオラマ 「大銀杏は見ていた 」を手直してドラマストーリー風にしてみました(^^)
拙い文章で失礼いたしました(^^;;
手直しした人達
麻呂さん、ベースから外すのにてこずりました(^^;;
所々塗装が剥げていたのでリタッチ♪
お顔ももう一段明るいハイライトを入れました(^^)