(二) 滋野の地名
現在の長野県東御市には、「滋野」という地名と神社が、それぞれ二カ所にあります。
一つは地名で、祢津村大字新張字滋野(現在は長野県東御市新張)があり、しかも、その地に新張の「滋野神社」があり、創立年月は不詳であるが、口傳には、大同年中(806~9)牧監滋野良成朝臣の創建と伝えられている。
祢津の滋野神社
もう一つは、和村大字海善寺字滋野原・滋野鎮(現在は東御市海善寺)という地名があり、その地に海善寺の「滋野神社」があり、創立は未詳であるが、伝えによると大昔、海野郷内に居住した滋野氏代々の産土神で八幡大神を祀ったという。
天延年中(973~5)に、滋野氏の後裔である海野幸恒が再建したと伝えられ、社の南面には海野氏の旧館の地へと続いていることから、海野氏と深いつながりをもつ古社であることが明瞭である。その後になって、木曽義仲が戦勝祈願の折に、白赤のボケが記念して植栽されたと伝えられている。
天正11年(1583)真田氏は、上田城築城のとき、由緒の社であるので、上田市紺屋町の八幡神社へ分社して、上田城鎮護の社としている。
その後、明治13年12月14日に吉田家で「滋野神社」と神社号の改称許可となった。
本社は、京都府八幡市八幡高坊にある岩清水八幡宮であり、日本三大八幡宮の一つに数えられおり、そこから分社された。
また、東御市西深井の諏訪社、東御市下之城の両羽神社、佐久市望月の大伴神社には、楢原東人系の神や神像を祀っておられ、このことからも無関係ではないかと思われる。『長野県文化財保護協会「文化財信濃」第30巻第3号、桜井松夫氏寄稿「滋野氏の歴史と展開」参考』
それから、京都府庁(京都御所の西側)の周辺に以前、滋野学区(現在の上京区)と呼ばれていた所に京都市立滋野中学校(昭和55年ころ閉校)と上京消防団滋野分団の詰め所が、かってあった。
その府庁の西側には平安時代の初め、滋野貞主の邸があり、そこには、よい泉が湧き出していて、後に蹴鞠の達人成通らが住んでいて、滋野井と呼んでいたという。 『平凡社「京都の地名」より』
