(三) 信州の滋野氏の祖
平安時代の六国史の『続日本記』の中に、滋野朝臣貞主の曽祖父は、楢原造東人で、天平勝宝2年(750)3月「駿河の国司楢原造東人が在任中に庵原郡蒲原(現在の静岡市蒲原)の多胡浦浜で金を採取して、朝廷に献上したので、同年5月には東人に伊蘇志(勤)臣の姓を賜った」とあり、この頃は、奈良大仏の鋳造をしている時であったので、金の発見と採取を促したことが知られる。
天平17年(745)の記事では「外従五位下楢原造東人」とある。その翌年天平18年(746)5月7日に「外」がはずれて「従五位下」に改められたことは、地方出身者や地方の郡司等に与えられた位階のことである。「造」については、地方における有力者で、朝廷に仕えるようになった身分のことであるので、「東人」は飛鳥朝廷に仕える前は、東国に住んでいた人ではなかろうか。『長野県文化財保護協会「文化財信濃」第30巻第3号、桜井松夫氏寄稿「滋野氏の歴史と展開」より』
以上のことから、楢原造東人の先祖の地は、信濃国奈良原(現在の長野県東御市新張の奈良原)が元で、都に出て仕えるようになり、京都御所府庁の滋野地区に住み、地名をとって滋野氏を名乗るようになったのであろう。
この頃、その奈良原の地には長命寺があり、寺伝によりますと、平安時代中期の天延3年(975)に、尊誉上人によって、新張牧の奈良原の聖地に、智光山三光院長命寺が、真言密教の修行道場として開山創建されたと伝えられており、この寺の上人は、永祚元年(989)6月に亡くなっている。
後の、鎌倉時代(1200)の初期、現在地に移転し、十二坊を有する大伽藍があったと伝えられている。
また、信濃国分寺の改築にあたっては、国分寺御本尊を一時、長命寺に移したと「国分寺記」に記されている。なお、武田信玄が、長野の信濃善光寺の御本尊を、弘治元年(1555)信濃国小県郡祢津(現在長野県東御市祢津)に移して、約三年間は、この寺域に安置し、永禄元年(1558)8月14日祢津を出立して甲府に移したという。 『吉原浩人著「甲斐善光寺」参考』
10月3日、信玄は、甲斐国板垣に善光寺伽藍を建築に着手するとの記録をみることができる。
そのほかに奈良原の地には、「古屋敷」「寺家」等の歴史的に古い地名が残り、「寺屋敷」と呼ばれているところの土中から、多くの五輪塔の残欠などが出土して、寺院跡を忍ばされている。
また、この地籍には、今も楢原姓の苗字を持つ人達がおられる。
なお、鹿沢温泉薬師堂の境内の石燈篭は、宝永元年(1704)8月吉日、奈良原正□右衛門直継と刻まれている。もう一つの手洗石鉢には「安永4年(1775) 楢原忠八 権六」とあり、奈良原の者が献上したことがわかる。
奈良原姓というのは、新張村(現在は長野県東御市新張)の名主であったという。
なお、幕末の信州旗本12家中、5千石取り四家の一人で松平忠節が、寛永元年(1624)に初代祢津領主となり、明治6年(1873)八代忠武まで続いていた。
その時の奉行は、用人格(家臣の役名で給金45~50石)か給人格(手当6両2分、3人扶持)のものから任命され、陣屋内奉行所につとめ知行所の行政を総括するとともに、領主の御名代として公式の儀礼にのぞんでいる。 祢津陣屋の奉行に楢原氏の名前がみえる。
寛保3年(1743) 楢原丈右衛門
文政9年(1826)~天保2年(1831) 楢原左仲太
天保8年(1837)~天保9年(1838) 楢原房之助
天保10年(1839)~天保13年(1842) 楢原主馬介
また代官は、中小姓格(家臣役名で給金5両2人~3人扶持)の中から任命され、奉行の命をうけて政務を処理する。 そこにも代官に楢原氏の名前がみえる。
万治2年(1655)~寛文10年(1670) 楢原伊右衛門
延宝4年(1676)~元禄15年(1702) 楢原助左衛門
正徳元年(1711)~享保13年(1728) 楢原政右衛門
享保14年(1729)~享保17年(1732) 楢原佐忠太
享保18年(1733)~延享4年(1747) 楢原丈左衛門
宝暦5年(1755)~寛政11年(1799) 楢原繁左衛門
宝暦13年(1763) 楢原助左衛門
享和元年(1801)~文政8年(1825) 楢原左仲太
文政7年(1824)~天保7年(1836) 楢原房之助
天保15年(1844)~安政2年(1855) 楢原主馬介
安政3年(1856)~安政4年(1857) 楢原保之助
安政5年(1858) 楢原文蔵
『(祢津陣屋と奉行代官名一覧表)上田小県誌二巻より』
「楢原」の苗字の人は、現在長野県の東信地方に43軒で、うち東御市に38軒で、新張地区には33軒の人達が住んでいる。(電話帳調べ)
この奈良原の地には、「新張の牧」があり、この地の豪族祢津氏、祢津神平貞直が鷹飼いの秘術で名高いように、馬を飼う技術が、極めて優れたものがいたと思われる。「望月の牧」を基盤とする望月氏も同様で、奈良県御所市楢原の山麓に馬の神様、駒形神社があることから、楢原造東人の先祖の地は、奈良原であっただろうと思われる。
また、前記した長命寺の別当で、東方に大日堂があり、その本尊の大日如来地蔵尊は、天平元年(729)に奈良県の楢原氏の菩提寺で九品寺開基と同じ行基菩薩で、北国辺土庶民教化のため巡回の際に、一刀三礼の勤修をもって彫刻された木造(丈220センチ)で霊験著しく、未完の秘仏であると言われている。
昭和2年(1927)7月4日、金井区長小林虎一郎氏によると、長命寺54世百瀬栄善師等の斡旋により、文部省古社寺調査事務主任塚本慶尚氏等の調査の時、平安朝の藤原氏全盛時代の彫刻で900有余年前の仏像にて、国宝的価値が充分ありと、折り紙をつけられるほどの尊像であったが、残念なことに寛保2年(1742)の戌の満水の時に庭心・清心両尼僧の救出が辛うじてで、避難の際に一方の肩を損像してしまったことである。 『土屋麓風著「祢津の史蹟を巡る」より』




