Museの音楽雑記帳 -10ページ目

Museの音楽雑記帳

ピアノレスナーMuse(ミューズ)の学び・遊び・日常

スタインウェイ社の調律師~シュテファン・クニュップファーと
フランスのピアニスト~ピエール=ローラン・エマール。
この二人がバッハ晩年の未完の傑作《フーガの技法》のレコーディングにむけて
究極の響きを追求していく姿を1年間にわたって追い続けたドキュメント映画。

ラン・ランや引退を目前に控えたアルフレート・ブレンデルなど、
名だたるピアニストのリハーサル風景も見どころ。
イグデスマン&ジョーの存在も異彩を放っている。




この映画を見て思い出したのが、中国の唾液による遺伝子検査。
「子どもの才能を早期に見つけ出して、得意分野を伸ばしてあげられる」というこの検査によると
芸術家に向いているかどうかは「美的センス」はもちろんのこと「こだわり」も重要な要素なんだとか。

その「こだわり」が美の完成度を高めることを「ピアノマニア」を見て再認識した次第。
もっとも、それ以前に「ちがいがわかる男(もちろん女も)」でないとこだわりようもないわけだが。
ダバダ~~ダ~ダ~♪(コーヒーは苦手です・・・)


究極の響きを得て完成したCDはこちら↓↓↓

バッハ:フーガの技法/ユニバーサル ミュージック クラシック
¥2,500
Amazon.co.jp

以下、公式サイトより引用

エマールがJ.S.バッハの《フーガの技法》に関心を抱いたのは、今から30年ほど前に遡り、旧東ドイツを演奏旅行中に、《フーガの技法》のバッハの自筆譜のファックスと、初版のリプリントを手に入れたことがきっかけだったという。
以来、様々な版にあたるなど独自の研究を続け、その多様性に惹かれていった。そこでエマールは、バッハが1曲ごとに意図していたであろうチェンバロ、オルガン、あるいはクラヴィコードや室内楽といった多彩な響きを、信頼する調律師のシュテファンの力を借りて、1台のピアノによって再現して録音するという、野心的なプロジェクトに着手。
紆余曲折を経て完成したこのCDは、フランスのディアパゾン・ドール賞、音楽誌「ル・モンド・ドゥ・ラ・ムジーク」のショック賞などを受賞したほか、ビルボード・チャートのクラシック部門では初登場で1位に輝くなど、クオリティと売り上げの両面で、成功を収めた。(引用ここまで)

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ヴァイオリン:アレクセイ・イグデスマン(Aleksey Igudesman1973~ 露:ウィーン在住)と
ピアノ:リチャード・ヒョンギ・ジョー(Richard Hyung-Ki Joo1973~ 英:韓)によるデュオ。
卓越した演奏技術と豊かな音楽性に裏打ちされたコメディスタイルのパフォーマンスで人気を博す。

二人はユーディ・メニューイン音楽学校で12歳の時に知り合っているが、
その出合いは必然で奇跡だったと思えてならない。

1)モーツァルト・ボンド



モーツァルトの交響曲第40番とジェームズ・ボンドのテーマには意外な接点があったらしい。
2曲間を行ったり来たり、おまけに「ある愛の詩」まで紛れ込んでいるが、違和感を感じさせない編曲と演奏はさすが。


2)ラフマニノフは手が大きかった



フィギュアスケートの浅田真央選手がフリープログラムで使った曲、ラフマニノフ前奏曲Op.3-2「鐘」
「ラフマニノフは手が大きかったけど・・・俺は小さいんだよーw」と嘆くジョー。
手の小さいピアニスト御用達 演奏補助スティック~特許申請中!!(違w)


3)もっともっとトルコ風のトルコ行進曲



「今日はAメジャーで弾けないか?」
「原曲はAマイナーだけど?」
「うん、その通りなんだけどさ・・・」

2人のやり取りが始まる。

「良くなったんだけど、もっと、こう・・・オリエンタルな・・・トルコ風にだよ。
 アラビアとか、ユダヤとか、ヒンドゥー(?)、中国とか、アジアっぽく!
 斬新にやろう、斬新に!な?君の中の獣っぽさを出して欲しいんだ!」
「ばかげてるよ・・・」
「とにかく(Bを)Bbにしてみよう」

トルコ親善大使に任命し、最優秀編曲賞を差し上げたい!!!


4)ピアノレッスン



この動画は個人的にどうしても好きになれません。
もしこれが日本のテレビで放映されたら、抗議の電話が殺到すると思われます。

じゃ、何でシェアするのよ・・・って?

ジョーの弾く「エリーゼのために」に度肝を抜かれたから。

番外編)




彼らは個別に「普通に」演奏活動も行っている。
ビリー・ジョエルと共演するジョー。




イタリアの友人宅に招かれた席で「お礼に」と無伴奏で弾き始めたイグデスマン。
クライマックスは怒濤の超絶技巧!!!

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明治末期から大正期にかけて活躍したピアニスト。
ヨーロッパ留学中に謎の投身自殺を遂げる。享年38

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久野 久(くの ひさ)は1886年(明治19年)滋賀県大津市に裕福な質屋(実際は地主で高利貸し)の
3人兄妹の末娘として生まれた。

3歳の時、神社での転落事故により右足に障害を負った久は、
母の死後引き取られた叔父の勧めで、一人でも生きていけるようにと邦楽を学ぶ。

13歳で早くも師範となるが「これからは邦楽よりも洋楽」という兄・弥太郎の助言により
15歳で東京音楽学校予科を受検。

当時の入試は、まだ専門実技がなく、邦楽実技が必須だったためにすんなりと合格。
入学後に初めてピアノに触れた久は、当初は退学勧告を受けるほどであったが、
幸田露伴の妹である幸田 延(門下には滝廉太郎、三浦環がいる)の指導の下、
「寝る間も惜しんで」「血のにじむような」練習を積み重ね、遅いスタートながらめきめきと頭角を現していく。

やがて初の純国産ピアニスト(日本で生まれ育ち、日本人に師事し、留学経験もない)として
絶大な人気を誇るようになった久の演奏は、「鍵盤を叩きつける指先から鮮血が散り」
「髪を振り乱して簪が飛ぶ」「着物の裾がはだけて太ももがあらわになる」など、
小柄な日本美人という風貌からは想像も出来ない程「情熱的」で「官能的」なものであったという。

当時の聴衆達は、まだ十分育っておらず、久の曲に対する解釈や音楽性に共感しているというよりは、
その頃大流行していた女義太夫に対する熱狂に近かったと言われている。

1910年(明治43年)助手、講師を経て、24歳で東京音楽学校・助教授に昇格。
演奏の場は遠く満州、朝鮮にまで及ぶ。

1914年(大正3年)27歳、順風満帆に思えた久のピアニスト人生はひき逃げによる交通事故により一転。
脳挫傷と肋骨骨折で意識不明の重体となり、治療には数ヶ月を要した。
翌年復活したものの、高次脳機能障害が残った久の精神と行動は不安定となり、
生来の激しい性格に加え、よりヒステリックで奇行が目立つようになる。

1916年(大正5年)アメリカ・メトロポリタン音楽学校の教授として活躍していた小倉末子(25歳)が
東京音楽学校・講師として招聘。
(約1年後には異例の早さで教授に昇格。久は後輩に先を越された格好になる)

同年12月 30歳、東京音楽学校奏楽堂にて事故からの復帰を記念した「久野 久・恢復祝賀演奏会」を開催。
ところがショパン・ピアノ協奏曲第1番の第2ピアノ(オーケストラパート)を担当するはずだった
客員教授のショルツ(久の同僚にあたる)が当日、演奏をボイコット。
これに対して、学校側は代役を立てるなどのフォローを何もしていない。

1917年(大正6年)31歳で東京音楽学校・教授に昇格。

翌年、「ベートーヴェンの午后」と題したソナタだけのプログラム
(「悲愴」「月光」「熱情」「ワルトシュタイン」「テンペスト」)でリサイタルを開き、大成功をおさめる。

1923年(大正12年)文部省の命令により海外研究員として「自費で」渡欧。
37歳という遅い留学(事実上の左遷)となる。途中、上海でコンサートを行う。

まずベルリンで生活を始めるがヨーロッパの習慣に無頓着な久(あくまで和服姿で通す、
西洋マナーを習得していない、肉中心の洋食になじめないなど)に、
代理大使たちは眉をひそめ、追い出すように公邸から閉め出してしまう。

漬け物とご飯のみで自炊生活を始めたが、指を痛めピアノが弾けない日々が続く。
そんな中でコンサートに通い、名ピアニスト(ザウアー、タルベール、ブゾーニ、ペトリ、フリードマン、
シュナーベル、クロイツァー、フイッシャー、ギーゼキング、ケンプなど)の全盛期の生演奏に触れ、
特にウナ・コルダ(左のペダル)を精妙に使った気品のあるキーゼキングの演奏に深い感銘を受ける。

それまで久はピアノを「弾く」のではなく「叩いて」きた。
髪を振り乱し、指先から出血するほど鍵盤を叩きつけるのが情熱的な演奏だと信じて方向違いの努力をしてきた。

ここにきてピアノという楽器が多彩な「美音」を奏でることが出来ることを初めて知る。

翌1924年(大正13年)9月、ウィーンに移住。
11月、ベルリンのコンサートで感銘を受けたエミール・フォン・ザウアーを訪ね、
最も得意とするベートーヴェンの月光ソナタを演奏。

「日本人が斯くまで正確に又芸術的に音楽を理解するとは今日まで思ってもみなかった」と
ザウアーに「絶賛」され、入門の許しを得る。
それは、はるばる遠い東洋の果てからやってきた久に対する暖かい社交辞令だったのだろう。

久の手紙には「来年の2月以降ならバーデンに戻っているからレッスンをしてあげても良いと
3度もくり返して言って下さった」とある。
この時、久は4月にウィーンで演奏会を開き、8月には日本に戻るつもりでいた。

1925年(大正14年)3月、ザウアーの住むウィーン郊外バーデン移住してレッスンを受け始めるが、
「あなたの奏法はまちがっている」と、基礎からのやり直しを言い渡される。
ザウアーとの出会いを歓喜に満ちて手紙にしたためた久だったが、
レッスンが始まってからは、ザウアーに関することを一切手紙に書いていない。

果たしてレッスンに同行した通訳(大島武官夫人)は、温厚で人一倍面倒見の良いザウアーの言葉を
湾曲することなく、悪意なく、正しく久に伝えたのだろうか?

「近々ウヰンをさります。英、仏、伊とまはりましていつ日本にかへりますか、一寸予定はつけていません」
これが最後の手紙となった。生活費も底をついていた。

同年4月20日、滞在先のホテル屋上から身を投げる。
遺書はない。

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さて、気になるのは久の実際の演奏。
実は10年くらい前、ある番組で久の演奏を聴く機会があった。

ザーザーというSP版の雑音と共に流れてきたベートーヴェンの月光ソナタ3楽章は、
苦労の跡がヒシヒシと伝わってきて痛々しくもあったが、私の想像に反して原典に忠実で、
多少気になる部分もあるものの、80年近く経っていた当時でも違和感なく聞ける演奏だった。

その時の番組ゲストの作曲家の三枝成彰さんも、久の演奏を聴いて
「いいんじゃないですか?現代風の演奏ですね」みたいなことをおっしゃっていたように記憶している。

Wikiには次の記載がある。(以下、引用)

久の演奏がヨーロッパで受け入れられなかったことについては、
当時の日本の演奏界の未熟さを示す例と一般では見なされている。
これに対し、音楽学者の渡辺裕は、久の演奏について、
当時のヨーロッパにおける演奏慣習にありがちなテンポの揺れがなく、「楽譜通り」のものである点に注目し、
むしろその後の主流となる原典主義の演奏法を先取りするものであったという見解を述べている。(引用ここまで)

この録音は久自身がNGを出したために生前には発売されず、久の死後、追悼版として世に出た。
現在では復刻版のCDで聴くことが出来る。
ロームミュージックファンデーション SPレコード復刻CD集 第4集 日本語版/エニー/日本音声保存
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こちらの動画の最後の部分(36分17秒)でも久の演奏が聞ける。



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