わが友よ。


われわれは今日も明日も困難に直面しているが、

それでもなお私には夢があると言いたい。

それは神様の心情に深く根ざした夢なのだ。



私には夢がある、つまりいつの日か、神様の主権が立ち上がり、「神様の真の愛を相続しよう」という信条を真の意味で実現させることだ。



私には夢がある。いつの日か復帰された新エデンの園で、かつての怨讐関係にあった子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢が。



私には夢がある。今、チュニジアの暴動、エジプトの反政府デモ、そして差別と抑圧の炎熱に焼かれる中東におけるイスラエルとアラブ国家でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変われる日が来るという夢が。



私には夢がある。私の二人の幼い子ども達が、いつの日か宗教や信ずるものによってではなく人格そのものによって評価される国に住めるようになるという夢が。



今日、私には夢がある!



私には夢がある、いつの日かこの日本でも、

目下のところ悪意と偏見に満ちた弁護士、牧師などによる強制改宗に牛耳られ、警視庁や東京地検、そして検察審査会でも不起訴相当とされた統一教会信徒の拉致監禁問題においてさえ


将来いつの日か、幼い祝福の少年少女たちが、そのような反対していた親を持つ少年少女たちと手に手を取って兄弟姉妹となることができるという夢が。




私には今日、夢がある!



私には夢がある、いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。「そして神の栄光が現れ、すべての人々が共にその栄光を見るだろう。」

(イザヤ書404-5



これが我々の希望なのだ。



この信仰をもって、私は天の故郷へ戻って行く

この信仰をもってすれば、絶望の山からも希望の石を切り出すことができるのだ。



この信仰をもってすれば、我々は祖国にうずまく不協和音を人類愛のすばらしいシンフォニーに昇華することができるのだ。



この信仰をもってすれば、我々は共に働き、共に祈り、共に闘い、共に監禁され、自由がいつか来るのだということを信じながら、共に神様のみ旨のために立ちあがることができるのだ。



そしててその日が来れば、その日が来れば神の子はみなおしなべて、新しい意味をこめて


「勝利は東より成されきて 誉れの子たちが住める園 日の本の国は勝利の国」


と歌えるのだ。



真に日本が偉大な国となるためには、このことを実現しなければならないのです。




だから、真の父母を誇り愛そう、3776mの日本一の高い秀麗な富士山の頂から。




真の父母を誇り愛そう、最澄によって開かれた天台宗の総本山の延暦寺のある比叡山の山頂からも。




真の父母を誇り愛そう、弘法大師空海の修行した高野山の山々からも。




それだけではない、




真の父母を誇り愛そう、北海道の中央南部にある日高山脈からも。




真の父母を誇り愛そう、青森県から栃木県にかけて南北に延びる奥羽山脈からも。



真の父母を誇り愛そう、富山県、岐阜県、長野県にまたがる飛騨山脈(北アルプス)からも。




真の父母を誇り愛そう、長野県、岐阜県、愛知県の南北にまたがって連なる木曽山脈(中央アルプス)からも。




真の父母を誇り愛そう、長野県、山梨県、静岡県にまたがって連なる赤石山脈(南アルプス)からも。




真の父母を誇り愛そう、日本のすべての丘やほんの小さな坂からも。

すべての山腹から、真の父母を誇り愛するのだ。



そうすれば、私達が真の父母を誇り愛すれば、すべての食口、すべての教会から、すべての教区、すべての祝福中心家庭から、真の父母を誇り愛すれば、

すべての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人(非ユダヤ人)も、プロテスタントもカトリックも、政府も国民も、民団も朝総連もすべての人々が手に手を取ってあの天一国聖歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。



「ついに国境線撤廃だ、


ついにOne Family under Godが実現された。

全能の神に感謝しよう。真の父母に感謝しよう。


ついに我々は神様の真の愛の相続者になったのだ」と。