社会人のひとりとしてだけでなく、職業柄社会に何が恩返し出来るだろうかということは、自分なりに考えているつもり。

 しかし、これらは教育と同様、すぐに結果が出るものではないし、更にコミットメントをどこまで出来るかということが難しいケースも多々ある。

 それでも、それを諦めてしまえば何も無いので、微力であっても出来ることをやっていきたい。


 そんないくつかの社会貢献ネタを抱えながら、ちょっとしたことがあった。

 お世話になっている方から頼まれて、しばらく前から無償かつ匿名で毎月コラムを提供していた。これはボクの社会的立場とか云々ではなく、ボク自身を評価・信用してくださって依頼が来たという嬉しいものだったので、どれだけ忙しくても休載したことはない。敢えて匿名で社会貢献として書かせていただいていたからかもしれない。

 しかし、残念乍ら諸般の事情でそれがしばらくお休みということになった。


 ついては、武蔵野とは何の関係もない、先月16日に書かせていただいたお蔵入りとなった原稿を、この場をお借りして掲載させていただき、自己満足の足しにさせていただきます。

 このような小さなことでも、誰かの何かに役に立てばと考えて、これからもひとつひとつ前進したいと考えています。


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☆「コミッショナーと名誉職」

 日本野球機構(NPB)が揺れています。2011年度から導入されていた所謂「統一球」が球団や選手やファンに公表されずに、飛ぶ球に変えられていたという問題が発生し、執筆現在加藤良三コミッショナーの反応に大きな批判が寄せられています。

 そもそもこの統一球は2009年のWBCでの日本チーム優勝後、加藤氏自身が提唱して導入されたものでした。アメリカを専門とする外交官として名を馳せ、駐米大使も歴任した加藤氏が日本のプロ野球も国際的なルールに適合するべきであると主張したからこそ導入に至ったのです。

 その後、データにも傍目にもわかる程、投手に有利な展開になりました。極端に前年度とは数字が変わることで、選手達も対応に苦労したようにも見受けられました。これによる批判について加藤氏は「これらに対応してこそ一流の一流と言える」と自説を展開したとされています。
 昨年度も選手会からあまりにも従来に比して突如とした投手有利になってしまったので、統一球の反発係数を上げてもらいたいとの要望も出されましたが、加藤氏はそれを拒絶して、今2013年度シーズンが開始されました。


 意外なことに、今年はホームランが多く飛び出して、打者の対応が進化したのかとも言われていました。今年はボールが飛ぶとはっきりと発言していた現場の人間も何人も出現し出していました。
 そのような動きに対して、NPB側もメーカーであるミズノ社も「ボールは変わっていない」という回答をし続けていたのですが、突如として「実はシーズン開始時からボールの反発係数を上げていました」という発言に変わってしまったのです。

 その公表を受けて加藤氏は「全ては下田事務局長が行ったことで、自分は知らなかった。自分は辞めるつもりはない」という趣旨の発言をし、物議を醸すことになってしまっているのです。


 私から言わせていただければ、この問題は「コミッショナーという名称の役職にも関わらず名誉職である」というところにあると思います。コミッショナーという名称は「コミットする人」という意味ですから、責任を持った関わりをする人間しか就任出来ない建前です。その為コミッショナーには絶大な権限が与えられているルールになっています。NPBのコミッショナーは米大リーグを模したものともされていますが、実態は終戦直後に人気を博したプロ野球に無秩序な引き抜き合戦が行われてGHQの指導でコミットする然るべき人間が必要とされて1951年に設置されたもののようです。

 しかし、実態はどうやら加藤氏は週一回内幸町のオフィスに顔を出すだけで、月収200万円をいただく典型的な名誉職(もしくは天下り職)であったのです。当然そういう契約なのでしょう。

 これに対する批判は東日本大震災直後にもなされていました。シーズン開始直前の甚大なる被害にも関わらず、それに対する対応を決める権限を持つコミッショナーが全くオフィスに出て来ないと報道されていることを読んだ記憶があります。加藤氏はそもそもそういう契約なのだから、自分がコミットする必要はなく、部下が対応して自分はそれに意見を述べていれば良いと考えていたのかもしれません。

 従って、当然ながらそのルール作りの問題も紛糾しましたし、その後のWBC参加問題でも選手会があたかも悪者であるような発言を繰り返して、プレイする現場の方々ばかりでなく報道を丹念に追いかけるファンからも呆れられていたというのが正直なところでしょう。そこにこういう発言が飛び出したのです。


 加藤氏は確かに有能な外交官でおられたことだと思います。その後沢山の名誉職のひとつとしてコミッショナーもお受けしたのかもしれません。現に加藤氏は三菱商事の社外取締役のようなお仕事も兼ねておられるようです。歴代のNPBコミッショナーは法曹・学術・官僚の功成り名を遂げた方々以外が就任されたケースは実業家の1例だけです。以前から実態は名誉職であったのかもしれません。

 今回の統一球変更については、現在の公表ベースでも昨年9月から10月にかけて何回かNPBとミズノ社で会合が持たれているようです。おそらくその間も加藤氏は自らコミットすることが出来る状態にもなく、その意志もなかったことでしょう。

 ここへ来て事態が退っ引きならなくなり、部下が公表にあたって報告ということになり「自分は知らなかった。下田事務局長が全て行ったことだ」という発言につながったと見ればある程度の辻褄は合います。

 ではありますが、その後の加藤氏の発言は、官僚としては問題が無いのかもしれませんが、コミッショナーという名称の人間としては問題外に聞こえます。言外に「実際に自分は名誉職だし、部下側で気を遣ってくれないと自分からコミットするのは難しかったのだ」という意味合いに聞こえてなりません。


 コミットする人という意味のコミッショナーが大きな問題にこれでは、一時が万事他の案件についても想像がついてしまうのが正直なところです。はっきり言って実態や機能などは皆無で、高級官僚出身者が高給をもらって顔を利かせているとしか考え様がありません。

 プロ野球選手というのは、ご存知のように個人事業主として各球団と契約をしている形式になっています。その個人事業主への委託契約の大前提となる道具やルールに関わる部分が、事実と異なる形になって隠蔽されていたということは、法律的に考えてもかなり由々しき状態です。


 加藤氏は「隠蔽や不祥事とは考えていない」と発言しておられますが、ご自分が名誉職であるのかコミットすべき人間であるのかを選択した上で、身の振り方や対応をお考えいただきたいと、一プロ野球ファンとして切に願う次第です。
 
 私共学校法人武蔵野学院は、此度アズ株式会社さんと業務提携契約をいたしました。

 アズ株式会社さんは、フリーター等の若年層の方々を育成して営業代行マンに育てる等、見識ある経営をされる会社さんです。

 今般の業務提携により、武蔵野学院大学を中心とした本学院の各学校と連携を深めて、将来の新しい教育(専門職大学院)等を見据えた協力体制を作りたいと考えています。更に、学校の本来の使命に基づき、広く社会の公器として共に教育・研究を広げていくことも模索したいと考えております。

 些か大袈裟に聞こえてしまったかもしれません。しかし、徐々にではありますが、本当に広く社会に資する活動を共に行いたいと考えての提携です。


 きっかけは、アズ株式会社さんを含め21社のアズグループを束ねる松田元さんが、武蔵野学院大学にて研究や教育を深める志で行動をとられたことにあります。

 松田さんは、新進気鋭の若手経営者としても著名ですが、九州大学での非常勤講師等教育や研究にも深い関心を払っておられる方でもおられます。ご縁あって、本学で研究活動を本腰を入れて始めていただくこととなりました。

 その結果、本学にSMB研究所という組織が設立され、松田さんが所長に就任されたことは前回の記事の通りです。


 皆さまご承知の通り、研究というものは社会の知の資産として作り上げられるべきものです。とりわけフィールドワーク的な研究にはプラグマティズムに代表されるように、現場での実践で社会への還元を目指すことが肝要でもあります。

 松田さんは、ご自身の問題意識、経営者としての方向性から、自ら研究の分野である「スモール・ミディアムビジネス」の可能性を感じられ、それを社会に教育と研究を通じて還元されたいという志をお持ちです。ともすれば、自分の実業は全て教育や研究の為のものであったと言えるとも仰有っています。

 その受け皿としてばかりでなく、本学も社会への貢献を共に活動していこうということになり、多面的な業務提携という運びになったものです。


 これからの目標や夢を語ることは簡単ですが、結果ばかりを気にするのではなく、志を持ってこれからの時代を支える若年層を中心とした方々の為に役立つ行動を進めていきたいと考えております。

 我々だから出来ること我々にしか出来ないことが必ずあるはずですので、それをしっかりと実現していきたいと決意をしております。

 ご覧の皆さま方におかれましては、今後とも本学院各学校へのご支援をどうぞよろしくお願い申し上げます。

                  学校法人武蔵野学院 理事長 高橋暢雄

 明後日13日土曜日と翌14日日曜日に武蔵野中学高等学校では、文化祭を開催いたします。

 昨年までも同じ時期に「夏祭り」と称してミニ文化祭を開催していたのですが、校長先生のご英断もあり、正式な文化祭として久しぶりに開催するものです。


 何故、真夏に文化祭を?という疑問もあると思います。

 私が子供の頃の武蔵野の文化祭は秋に開催されていました。生徒数も多かったことから足の踏み場も無いほどの大盛況であったことを鮮明に覚えています。

 保護者の方々ばかりでなく、地域の方々にも愛され、そこから生まれた定番企画も沢山ありました。その内にHRダンス等が目玉企画になってきて、運動が得意な生徒達から体育祭をやりたいという声が上がるようになったそうです。

 そこで気合いを入れて体育祭を開催したところ、内外から大変好評で文化祭よりも体育祭を気合い入れて開催する流れとなって行きました。

 その間、文化祭も秋に開催された年もあったのですが、平成8年を最後に秋の文化祭は開催されなくなりました。
 
 今度は、体育祭だけでなく文化祭もやりたいと言い出す生徒達も出て来て、夏休み前にミニ文化祭を始めたのです。これも早いものでもう十数年続いています。


 秋の体育祭は武蔵野の目玉行事となっていますので、どうしても夏の文化祭はミニ文化祭のようになっていたのですが、勉強も社会体験も重要と考える西久保校長先生を中心に、遂に両立を目指して真夏の文化祭を新装開店することになったという流れです。


 コンテンツについてはこちら
http://www.musashino.ac.jp/content/files/20130709-072654.pdf)を詳しくはご覧ください。

 クラブ展示あり、ダンスや映像のような発表あり、お化け屋敷あり、出店ありと盛りだくさんです。

 中には、NGOとして著名な「テラ・ルネッサンス」さんとの共催展示や、世界レベルで有名な「TEDx @ Musashino Highschool」のようなイベントもあります。また、保護者の皆さまにもご参加いただいて例年大好評の「武蔵野中学校おやじの会」さんによる焼きそばや、父母会の皆さまによる沖縄カフェ&販売のような企画もあります。


 お時間のある方は、武蔵野中学高等学校の文化祭に是非お運びください。楽しいですよ!


☆武蔵野中学高等学校のホームページは、こちらです。

☆武蔵野中学高等学校文化祭のコンテンツページは、こちらです。
 

 武蔵野学院大学には、大学ならではの研究所がいくつかあります。

 研究機構として日本総合研究所という部局があり、その下にいくつかの研究所が設立されているスタイルです。

 各研究所は、それぞれの問題意識に従って研究と教育活動を進めています。今回はその中から「SMB研究所」をご紹介いたします。


 そもそも武蔵野学院大学では、大学とは「社会の公器」であると考えています。ですから自分の大学の学生だけを指導して教育するのではなく、色々な手法や局面を使わせていただきながら、自分の大学の学生の方々以外にも教育出来る方向性を模索したり、その為の研究や活動を支えていくべきだと考えています。

 その意味で、現在最もそういう可能性を秘めている研究所が「SMB研究所」となります。


 SMBとは「スモール・ミディアム・ビジネス」の略称です。つまり「中小ビジネス」という訳です。一頃のアントレプレナーシップやフリーエージェントとは違った意味で、ご自分なりの新しいビジネスを行う方々を支援・教育したり、その背景となる研究やノウハウ蓄積をする必要を本学も感じていました。
 
 従来は雇用が安定し、年功序列の典型とされた大企業でさえ、近時のグローバル経済はそのようなスタイルの維持を阻害しています。政治は雇用の安定を目指して、様々な施策を打っていますが、従来の延長線上の施策ではいつか行き詰まる可能性もあります。

 新しいビジネススタイルがどのようになるのか、完全なる予測は難しいのですが、雇用・被雇用という単純な構造ではなく、最近流行の「グループではなくチーム」のような形態でのビジネススタイルを想定して、それを目指す方々への支援が出来る体制を整えたいと考えています。


 4月に設立されましたので、まだまだ研究も教育も始まったばかりです。しかし、大学の中だけに留まらず広く社会の中で活動をしたいと計画をしています。

 それらを想定して、研究所の所長には新進気鋭の若手経営者である「松田元(まつだげん)氏」を選出しました。副所長には本学教授で経営品質の第一人者でもあり日本経営品質学会会長の渡辺昇先生にお務めいただいています。

 所長の松田元氏は、まだ29歳と若い経営者でおられますが、非常に見識も高く、実業を研究・教育の視点から常に見ている方でもおられます。本学の活動にも理解が深く共感をしていただいている方であり、適任であると異例の抜擢がなされたものです。実業に忙しい毎日を過ごされながらも、常に研究熱心であり社会動向に目を向けておられるので、本学としても松田氏に大いなる期待を寄せています。


 松田氏は現在アズグループホールディングス社長・アズ株式会社会長等、グループ21社を束ねておられますが、松田氏のご見識の一端をご紹介しておきたいと思います。
 
 このリンクは松田氏が自社HPで公開されているコラムで、既に101回を数えているものです。松田氏から許可をいただきパスワードも教えていただきました。「edge」です。

http://asz-park.com/asz/0101-3

 この「縁(ふち)理論」も彼独特の発想とのことですが、研究所の研究にも資するヒントではないかと感じております。


 所長である松田氏をはじめ、SMB研究所が様々な方々の溢れる才能の受け皿となり、産学協同事業として大きく発展してくれることを心から願っています。

                       武蔵野学院大学学長 高橋暢雄

☆武蔵野学院大学のホームページは、こちらです。
 
 アナウンスいたしました通り、武蔵野中学高等学校元学校長でおられた肥沼与四郎(こえぬまよしろう)先生がご逝去され、昨夜にお通夜が本日に告別式がいとなまれました。

 私も何とか両日とも肥沼先生の下に駆けつけることが出来、ご家族・ご親族の皆さまや肥沼先生を愛する方々とご一緒に先生をお見送りいたしました。

 とりわけお通夜については式場に一時は入れない程の方がご参列され、故人を偲ばれました。


 記載するかを迷いましたが、追加で書き込みをさせていただきます。

 お通夜の際に、喪主でおられるご長男の肥沼正芳さんにご挨拶をいたしました。先生はまさに大往生で、亡くなる1分前まで普通に会話をしておられたとのことです。頭脳は少なくともはっきりしっかりしておられました。

 そんな先生が時折「理事長、理事長」とお休みの際にうわごとのように仰有っていたそうです。先生が仕えた本学院の理事長は、創設者で曾祖母の高橋とき先生をはじめ、祖父の高橋一男先生、父の高橋一彦先生、そして私とおりますが、私以外は別の肩書きで呼ばれていたようなので、この場合私を指すのだと思います。

 そのエピソードをお伺いして感ずるのは、昨年に開催された武蔵野学院の創立100周年記念式典のことです。先生が腰を痛めてお辞めになる折、私は「来年は創立100周年の式典を行うから、先生にも是非ご出席いただきたい。」と申し上げていました。

 先生もそのおつもりで、介添えや車椅子を利用してでも長時間の式典に臨むつもりでおられ、私もその対応の準備をしていました。しかし、先生は数日前に高熱を出されて医師からストップがかかり、出席が叶いませんでした。

 その後一度お電話でお話しし、お元気な声はお聞きしたのですが、一度ご挨拶に来てくださるという話で終わっていました。

 肥沼先生は、とても責任感の強い方でおられましたから、私に不義理のご挨拶をしなければと常に案じておられたのかもしれません。そんなところも先生の素晴らしい美徳でした。

 因みに、そんな先生がいつも愛されていた「青い背広」は先生のお棺に収められたそうです。


 何はともあれ、しめやかにそして恙無くお式も終えることが出来ました。参列された皆さまもありがとうございました。

 改めまして、肥沼先生のご冥福をお祈り申し上げます。


☆肥沼先生ご逝去についての記事は、こちらをご覧ください。 

☆肥沼先生のご紹介記事については、こちらをご覧ください。

☆肥沼先生の関連記事は、こちらをご覧ください。

 元学校長の肥沼先生だけではなく、悲しい訃報が続きました。

 武蔵野学院大学日本総合研究所のSAF(スペシャル・アカデミック・フェロー)をお務めいただき、元武蔵野学院大学非常勤講師でおられた、映画監督・俳優の塩屋俊(しおやとし・ご本名塩屋智章)先生が、6月5日に急逝されました。享年56歳の若さでした。

 
 塩屋先生は、大分県臼杵市のご出身で、慶應義塾大学に進学し、KESSと呼ばれる学内の英語クラブに入られました。そこで英語劇を通じて演劇活動に魅了されて、国内外で俳優としてご活躍されるようになりました。

 アメリカに渡って俳優活動を続けられる中、俳優を育成するメソッドの確立していた彼の地と本邦の違いに発憤され、帰国されて94年に「塩屋俊アクターズクリニック」を設立されました。ここは謂わば「俳優・女優さんの駆け込み寺」のようなところとなり、ご自分の演技力を更に磨きたい方々の受け皿となりました。

 演技等の表現や演出の基本の大切さを、お会いする度に素人の私にも塩屋先生は説いておられたことを思い出します。


 その後、演出・映画監督・俳優・スクールの運営及び指導と八面六臂のご活躍を始められた塩屋先生との出会いは、先生が監督された映画「ゼロからの風」でした。

 当時先生は映画制作の資金を求めておられ、知人から紹介いただいてお話しをしたのですが、残念乍ら資金的ご協力が出来なかった為、完成した映画を武蔵野学院の各学校にて上映することとなりました。この映画の最後のテロップには武蔵野の名前も載せていただいています。


 その内に、大学の後輩でもあった私を可愛がってくださるようになり、人をご紹介くださったり、武蔵野学院大学での研究・教育にも携わってくださるようになり、非常勤講師等もお務めいただきました。

 私の暁星小中高の同級生であるホリプロ社長の堀義貴(現武蔵野学院大学日本総合研究所SAF)くんと塩屋先生は大変懇意で、堀くんに武蔵野学院大学に研究・教育面での支援をするべきだと説いてくださったのも塩屋先生でした。


 最近では大分国体での開会式典総合プロデューサーのお仕事をきっかけに、故郷大分県での活動を深めておられました。また東日本大震災に深く心を痛められ、それが最後のお仕事となられた舞台「HIKOBAE2013」につながられました。

 企画と演出を務められたその舞台の公演で訪れた仙台の地で倒れ不帰の客となられたのです。


 私に塩屋先生をご紹介くださった知人の先生は、「役者が舞台の仕事で倒れて帰らぬ人となった。本望だったんじゃないかな。。。」と呟いておられました。

 改めまして、塩屋俊先生のご冥福をお祈りしたいと思います。本学にも多大なご貢献を頂戴し、本当にありがとうございました。合掌。

                  武蔵野学院大学 学長 高橋暢雄 敬白


追伸:塩屋先生が代表取締役社長をお務めでした株式会社ウィル・ドゥさんのHPによれば、後日改めて「お別れ会」が催されるとのことです。

株式会社ウィル・ドゥさんのHPは、こちらです。

 昨6月4日に、武蔵野中学高等学校元学校長である肥沼与四郎(こえぬまよしろう)先生がご逝去されました。

 肥沼先生は、武蔵野101年の歴史で60年以上継続して教壇に立たれた、まさに名物男でした。


 肥沼先生は昭和3年生まれ。戦場にこそ立ちませんでしたが、戦時中に勤労動員に駆り出されました。勤労動員というとイメージが湧きにくいかもしれませんが、戦争が激しくなると、学生が勉強そっちのけで軍需工場に工員として動員されたのです。そういう時代でした。

 肥沼先生によると、軍需工場は米軍機の狙い撃ちに遭う場所ですが、空襲警報が鳴っても持ち場を離れてはいけないルールだったそうです。ダダダダダッと弾が飛んできて初めて持ち場を離れて、外に自分で掘った一人用の避難壕に隠れてもよかったそうで、「みんな友達がどんどん死んでしまってねぇ。。」と話されていました。戦場にも匹敵する苛烈な場だったのです。

 そこで九死に一生を得た肥沼先生は、戦後のどさくさで学校も卒業となり教員免許を得ました。ある日、友達に頼まれて、武蔵野にその方の教員就職を代理で断りに行ったところ、私の祖父の高橋一男先生から「じゃあ、キミが勤務しろ」と言われ、はずみで武蔵野の数学科教員となりました。


 若い頃に勤労動員を潜り抜けたご経験からか、肥沼先生は周囲で何が起きても動じない先生でした。顔色一つ変えないことから、生徒達には「鉄仮面」という渾名で呼ばれていました。

 飄々としながらも、厳しく愛情のある先生で、生徒達からとても愛されると共に、強豪の卓球部が戦後弱体化したことを嘆き、自ら顧問を務め全国レベルに仕立てました。


 その後、教頭を経て学校長となりましたが、突然心臓を病んで仕事どころではなくなってしまいました。しかし、肥沼先生は不屈の精神で仕事と療養を両立し、その後も「一病息災」と散歩を趣味に体調管理に勤しんでおられました。

 定年後も父である高橋一彦先生の信頼厚く継続して勤務し、武蔵野短期大学で講師をしたり、武蔵野学院の監事・評議員等をお務めになり、その後は教育顧問というお肩書きで中高の現場で数学を教え続けました。

 私が理事長になってからガンを患われて、一時は年度限りで退職をされると仰有ったのですがそれも完治し、心配する私を他所に教壇に立ち続けました。


 現在、私共武蔵野学院では奉職して40周年と60周年にささやかなお祝いをするのですが、これは肥沼先生のご勤務が継続60年となられたことから始まりました。

 まさに鉄人でした。

 一昨年の3月、腰を痛めたとのことで六十有余年に渡るご勤務に終止符を打ち、その後はご自宅屋上の温室で胡蝶蘭等を栽培される等、精力的に人生を楽しんでおられました。

 
 肥沼先生は「青い背広」がお好きで、いつも背筋を伸ばしてキチッとしておられました。昔の歌の文句ではありませんが、「青い背広で心も軽く。。。」を地でいくような、先生らしい先生でおられました。

 私は小さい子供の頃から先生を存じ上げ、先生の凜としたお姿を心から尊敬しておりました。学校長や理事長や学長を務める中、40歳も年上の部下としてお手伝いもいただきました。先生との思いでは尽きませんし、感謝しても感謝しきれない思いです。

 肥沼先生、永年に渡りどうもありがとうございました。どうぞ安らかに。

                     学校法人武蔵野学院理事長 高橋暢雄 敬白


☆肥沼与四郎先生ご葬儀日程

お通夜:6月8日土曜日18時より
告別式:6月9日日曜日10時より
場所:池袋沙羅ホール  171-0022豊島区南池袋2-20-4 03-3982-4569
喪主:肥沼正芳様(ご長男)

 武蔵野学院大学国際コミュニケーション学部では、学生のみんなが留学しやすい環境を整えています。

 半年留学しても、4年間で卒業出来るしくみを整備したり、その間それなりの成績の学生には学費を免除したり、等々の工夫をしています。

 大方の大学さんでは、半期留学しても4年で卒業出来なかったり、学校が学生の留学にコミットメントを持たないで、勝手に行かせているので、援助も相談程度だったりしている話をお聞きしているので、その点を解決して改善しました。


 在学中に半年間留学出来るようにするべく、授業単位としての3週間留学にも力を注いでいます。

 アメリカ・ボストンのパインマナー大学と、カナダ・トロントのヨーク大学、中国・北京の清華大学の3大学が提携先で、その3週間は相手の大学さんの学生になっていただきます。つまり、本学の先生方も同行はしますが、敢えて手出しせず先方の先生方のご指導のみに従ってもらうのです。

 おかげさまで、アメリカやカナダには沢山の学生がチャレンジしてくれています。残念なことに中国については色々な社会情勢から激減していますが、過去は沢山の学生が中国にもチャレンジしてくれていました。

 
 今年は、その3週間留学が5月30日から6月19日まで行われます。今回から学内で「奨学金留学研修生」を募集し、5名の学生がアメリカ・カナダ・中国にチャレンジします。

 これは、大きな大学さんでは短期の留学でも学生各自に任せきりで、本学のように希望者全員にチャンスを与えられないという話をお聞きし、更にこの留学に沢山の学生が関われるように工夫したものです。


 ここへきて、その5名がブログを更新してくれるそうです。

カナダ1:http://ameblo.jp/musagaku1
カナダ2:http://ameblo.jp/musagaku4
アメリカ:http://ameblo.jp/musagaku6
中国1:http://ameblo.jp/musagaku3
中国2:http://ameblo.jp/musagaku5

 とても楽しみですね。


 私自身は、この3週間の短い留学で一番体得してもらいたいのが「順応性」と考えています。

 既に行って来た先輩の学生達と話すと、ポイントになるのは「早く馴染めたか」だと感じます。早い人はもうその日か翌日には環境に馴染んで、語学力以前に雰囲気に合わせていたようです。また、そういう人ほど楽しめていたようです。

 昔と違い、今の学生には社会性については課題も多いですが、順応性は高い人が多いです。しかし、就職しても馴染めず「自分の夢と違った」という本音かどうかわからないような雰囲気で会社をすぐに辞めてしまう人もいます。

 留学して、語学力も知識も何も大切ではありますが、まずは環境に馴染める自分の力を磨いてくれることがとても大切に思えてなりません。

 
 今年3週間チャレンジするみんなにも、そういう力が蓄えられたらいいなと、心から思います。

 武蔵野学院大学・武蔵野短期大学の地元は埼玉県狭山市です。

 武蔵野と狭山市の関係は八十年以上のものとなります。武蔵野が保有していた朝霞の農園が軍に接収されることとなり、代替地として狭山の雑木林をもらったのです。それが現在の「武蔵野学院狭山の杜」となります。その後、昭和56年に狭山工業団地のそばに誘致されて大学を開設し、今に至るのです。

 創立者で私の曾祖母である高橋とき先生は、狭山の地が気に入り戦争で疎開後も狭山市に住まいました。とき先生が亡くなられても、祖父母はその地に住み続け、私も祖母が亡くなるまでは本籍地が狭山の杜にありました。

 それ故、古い地元の方々の一部は、私自身も地元の人間の一人として扱ってくださり、大変有り難く考えています。


 当然、地元である狭山の方々とのお付き合いも深いものがあります。先日、本学院理事でもある狭山商工会議所会頭の清水武信先生とお話しをしていました。清水先生は税理士で、日税連副会長もお務めになられた地元の重鎮かつ碩学です。

 清水先生がそこで勧めてくださったのが、立教大学経済学部教授の山口義行先生の勉強会でした。山口先生が狭山市に住まわれていたご縁もあり、10年も続いているとのことでした。既に73回を数える会合でもあります。

 早速2回ほど拝聴させていただいたのですが、非常に素晴らしく、明快かつ本質的な話をお伺いすることが出来ました。

 特に、お隣り川越にある武州ガスさんは、原社長さん以下社員の方々が熱心に沢山受講されていて、意識の高さを感じることが出来ました。


 その山口先生は中小企業支援を主たるテーマとして活動及び研究を展開されていて、「スモールサン」という組織で幅広い情報提供もされています。

☆スモールサン   http://www.smallsun.jp

 このスモールサンでは、この6月2日日曜日に日曜大学と銘打って、立教大学内にて大きなイベントを開催されるご様子です。ご説明をお聞きしましたが、とても興味深く実践的な企画になっています。

 私自身は、その日偶さか大学にて業務があり参加出来ませんが、もしもご興味がある方はご参加されてみては如何でしょうか。

 また、地元狭山市で開催される山口先生による73回を数える「経済研究会」については、主催である狭山商工会議所(担当大石さま)までお問い合わせくださいませ。有意義かと存じます。


 よく地域の活性化と人口に膾炙していても、地元の方々が誰かに依存して答えだけを求めているケースもあるようです。狭山市の皆さんのように、自ら地道に勉強されている姿勢があらば、必ず何らかの成果が得られるのだと思います。

 地域と80年以上お付き合いし、これからもご一緒する武蔵野として、また何かが出来たらいいな。と考えております。

 武蔵野学院大学と武蔵野短期大学の広報(マーケティング)にはあまり予算がありません(笑)

 しかし、以前書かせていただいた通りの経緯で武蔵野学院大学という名前は、文科省申請時に「武蔵野大学」であったものの、とある出来事で急遽「武蔵野学院大学」に変更した為、認知度が低い問題があります。

☆過去記事「武蔵野がいっぱい。。。。」
 http://ameblo.jp/musagaku/entry-10383966622.html

 そこで昨年度辺りから、スタッフと協議して選択と集中をしたマーケティング戦略を採ることとなりました。まずはテストしたのは電車の車内広告なのですが、ご存知のように現在の電車の車内広告は大学の広告で溢れています。値段の相場がわかってみると、他の大学さんがよくもまぁ、ここまで出すなと思うことしきりです。本学にはそこまでの予算はありません。

 結論として、昨年度は1ヶ月だけ西武線のドア横に広告を出してみました。どうせ出すならと知己のデザイン会社である「ホノルル」さんにお願いし、本学澤口教授や幼児教育のテーマを動画と連動する車内広告にして出していただきました。

 短い期間とは言え、多少のインパクトがあったのか、多くの皆さまに見ましたよ、と声をかけていただきました。

 ですが、兎に角費用がかかってしまうので、今年度も色々と頭を悩ませています。


 そこへ先日、十年来の友人である「日本一の鍼師」として名高い藤田義行さんからご連絡をいただきました。藤田さんはお仕事柄、沢山のアスリートの方々と交流があり、中でも藤田さんが尊敬するサッカーの名波浩さんの事務所からいただいたお話しを回してくださったのです。

 それは、5月23日に国立競技場で開催される、サッカーの藤田俊哉選手送別試合のスポンサーのお話しでした。

 藤田義行さんも素晴らしい方なので、押しつけがましいこともなく自然体でご提案いただいたのでスムースに協議も進みました。本来、本学が対象と考える受験生さんに訴求するものかは疑問があったのですが、名波浩さんの事務所(株式会社ラボーナ)社長である小澤さんが非常に楽しく素晴らしい方で、小澤さんのお話しをお聞きしたことも背中を押しました。

 私はサッカーが盛んな暁星で小中高を過ごしたものの、現在のサッカーシーンにはまるで暗く、そこに出場する選手の皆さんのご活躍ぶりは悉く存じ上げないのですが、今回引退される藤田選手と名波さんが深い信頼関係でおられるということは、大変よくわかり、藤田選手の送別試合の支援をしようと考えるようになりました。


 長々と経緯ばかりを書かせていただきましたが、5月23日の国立競技場ゴール裏第一列に本学の看板が出ることに決まりました。

 サッカーには暗い私ですが、これをご縁に藤田選手の応援をしたいと思います。

 
 尚、最後にご連絡ですが、武蔵野学院大学・武蔵野短期大学の学生を対象として、この試合の自由席チケット(当日3000円)をプレゼントいたします。

 希望者は4月30日までに学生部に申し出てください。皆が知る名選手達が藤田選手の最後を送別する特別な試合です。数に限りはありますが、沢山の学生の皆さんの応募を待っています。

 
 今回チャンスをいただきました藤田義行さん、名波浩事務所(株式会社ラボーナ)小澤優さん、そして引退される藤田俊哉選手に感謝申し上げます。ありがとうございました。

                    武蔵野学院大学 学長 高橋暢雄 敬白