昨6月4日に、武蔵野中学高等学校元学校長である肥沼与四郎(こえぬまよしろう)先生がご逝去されました。

 肥沼先生は、武蔵野101年の歴史で60年以上継続して教壇に立たれた、まさに名物男でした。


 肥沼先生は昭和3年生まれ。戦場にこそ立ちませんでしたが、戦時中に勤労動員に駆り出されました。勤労動員というとイメージが湧きにくいかもしれませんが、戦争が激しくなると、学生が勉強そっちのけで軍需工場に工員として動員されたのです。そういう時代でした。

 肥沼先生によると、軍需工場は米軍機の狙い撃ちに遭う場所ですが、空襲警報が鳴っても持ち場を離れてはいけないルールだったそうです。ダダダダダッと弾が飛んできて初めて持ち場を離れて、外に自分で掘った一人用の避難壕に隠れてもよかったそうで、「みんな友達がどんどん死んでしまってねぇ。。」と話されていました。戦場にも匹敵する苛烈な場だったのです。

 そこで九死に一生を得た肥沼先生は、戦後のどさくさで学校も卒業となり教員免許を得ました。ある日、友達に頼まれて、武蔵野にその方の教員就職を代理で断りに行ったところ、私の祖父の高橋一男先生から「じゃあ、キミが勤務しろ」と言われ、はずみで武蔵野の数学科教員となりました。


 若い頃に勤労動員を潜り抜けたご経験からか、肥沼先生は周囲で何が起きても動じない先生でした。顔色一つ変えないことから、生徒達には「鉄仮面」という渾名で呼ばれていました。

 飄々としながらも、厳しく愛情のある先生で、生徒達からとても愛されると共に、強豪の卓球部が戦後弱体化したことを嘆き、自ら顧問を務め全国レベルに仕立てました。


 その後、教頭を経て学校長となりましたが、突然心臓を病んで仕事どころではなくなってしまいました。しかし、肥沼先生は不屈の精神で仕事と療養を両立し、その後も「一病息災」と散歩を趣味に体調管理に勤しんでおられました。

 定年後も父である高橋一彦先生の信頼厚く継続して勤務し、武蔵野短期大学で講師をしたり、武蔵野学院の監事・評議員等をお務めになり、その後は教育顧問というお肩書きで中高の現場で数学を教え続けました。

 私が理事長になってからガンを患われて、一時は年度限りで退職をされると仰有ったのですがそれも完治し、心配する私を他所に教壇に立ち続けました。


 現在、私共武蔵野学院では奉職して40周年と60周年にささやかなお祝いをするのですが、これは肥沼先生のご勤務が継続60年となられたことから始まりました。

 まさに鉄人でした。

 一昨年の3月、腰を痛めたとのことで六十有余年に渡るご勤務に終止符を打ち、その後はご自宅屋上の温室で胡蝶蘭等を栽培される等、精力的に人生を楽しんでおられました。

 
 肥沼先生は「青い背広」がお好きで、いつも背筋を伸ばしてキチッとしておられました。昔の歌の文句ではありませんが、「青い背広で心も軽く。。。」を地でいくような、先生らしい先生でおられました。

 私は小さい子供の頃から先生を存じ上げ、先生の凜としたお姿を心から尊敬しておりました。学校長や理事長や学長を務める中、40歳も年上の部下としてお手伝いもいただきました。先生との思いでは尽きませんし、感謝しても感謝しきれない思いです。

 肥沼先生、永年に渡りどうもありがとうございました。どうぞ安らかに。

                     学校法人武蔵野学院理事長 高橋暢雄 敬白


☆肥沼与四郎先生ご葬儀日程

お通夜:6月8日土曜日18時より
告別式:6月9日日曜日10時より
場所:池袋沙羅ホール  171-0022豊島区南池袋2-20-4 03-3982-4569
喪主:肥沼正芳様(ご長男)