悲しみの開聞岳 | 音を見つめる日々…

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▲池田湖と開聞岳

久しぶりに両親のいる鹿児島に帰っています。

2年ぶりの再会。

思っていたより元気で、安心しています。

福岡の妹も合わせて帰って来て、久しぶりの家族水入らずの数日。

たまにはと、指宿のホテルをとって一泊しました。

途中に立ち寄った知覧町の武家屋敷群と特攻平和会館。

▲知覧武家屋敷の並ぶ通り

武家屋敷群も良かったですが、心に残ったのは特攻平和会館。

▲平和会館入口

ここはもともとは操縦訓練所でしたが、戦況が悪くなった第2次世

界大戦末期、当時の陸軍が特攻基地に定めたのでした。

特攻とは爆弾を積んだ飛行機もろとも敵艦に体当たりするという

人類史上全く類の無い作戦。

しかも、隊員はみな20歳前後の若者たち。

会館の中には、特攻隊員の遺影、遺品、最後の手紙等、数多く

展示されていて見る者の胸を打ちます。

 

もし自分が19歳だったころ、国のために爆弾を積んだ飛行機で

 

敵艦に体当たりしなさいと命じられたら。

または、自分の息子が特攻隊員として出撃していったら。

考えただけでも恐ろしくなります。

 

ちょっと生まれた時代が違うだけなのに。

 

三角兵舎と言われる特攻隊員の宿舎では、出撃の前夜、寝床で

声を押し殺して泣く者もいたそうです。

 

私の叔父で今年95歳になる隼(はやぶさ)戦闘隊の大尉だった

 

方がいます。

父によると、叔父は特攻隊員としてこの知覧に来ていた時期が

あったそう。

戦友たちは知覧の飛行場を飛び立ち、急降下して翼を3度左右に

振り(お礼の意味がある)開聞岳の彼方に消えて行ったそうです。

この時に叔父は無二の親友を見送っており、「すぐ後から行くから

な」と約束したそう。

しかし、朝鮮の日本空軍基地の隊長が戦死し、急きょそこの隊長に

叔父は任命され、その地で終戦を迎えたのでした。

その叔父が言っていたそうなのですが、飛行訓練のときにエンジン

トラブルで墜落しそうになったことがあり、その時に思わず出てきた

言葉は「天皇陛下万歳!」ではなく「おかあさん!」だったそうです。

 

40人くらいずつ第11次まで続いた特攻攻撃。

 

このような愚かな戦争を引き起こしてしまったのは確かに悪いですが、

国を思い、家族の平和を願って出撃していった多くの若者の純粋な

気持ちは永遠に尊ばれなければならないでしょう。

 

幼いころから何の気なしに眺めていた開聞岳は、実は多くの特攻隊員を

 

見送った山でした。

平和会館を後にして改めて眺めた開聞岳。

その横に、背を向けて南へ向かう特攻機の列を見たような気がしました。



▲平和会館前の特攻隊員銅像