こんにちは✨ るぅく ですにっこりスター
皆様、寒くなりましたが、
体調を崩されたりしていませんか?
能登地震の被災地の皆様も
寒さの中 雨や雪、とても心配です。

先日、父が救急搬送され、
重篤であると 医師から告げられたことから
ブログは少しの間 書けないと思います、と
前回のブログに書かせて頂きました。

ブログを始めて間もない私に
たくさんの 励ましの いいねを頂いたり、
コメントまで頂いて
なんて私は幸せ者なんだろう…と
見るたび 涙が止まりませんでした。

この場を借りまして、
改めて ブログを読んでくださる皆さま、
励ましのいいね や コメントを
くださった皆さま
フォロワーになってくださった皆さま
ありがとうございました🙏ラブラブ
 
たくさんの元気と 温かいお言葉
私は一生忘れません✨✨
心から 皆さまに 感謝いたします💕
ありがとうございます🥰

ベル今回は 父が救急搬送された時の経緯や
ほとんどが、私の 父への
贖罪の内容になります。

流れ星またブログを書こうと思った心情の変化や
見えない力に 支えられた
不思議体験も 順を追って
書いていきたいと思います。

宝石赤少し 内容が長くなるかもしれませんが
もし、お付き合い頂けましたら
とても 有難いです✨
よろしくお願いします。

そして、能登地震で
お亡くなりになられた方の御冥福を
心よりお祈り申し上げます。
また、大切な方を亡くされた皆様、
被災され、大変な環境下で避難生活を
されている皆様
どうか一日も早い復興と
皆様に 笑顔や日常が戻りますように


父が 1月5日に 救急搬送されました。

医師から『かなり重体です。
ご高齢者ですし、血圧も下がっている。

正直なところ、ご家族の方は 最悪の結果も
覚悟をして頂かないと いけない状況です』
と、告げられました。

父は、重度の肺炎と、
新型コロナウィルスにも感染していました。

父は外へ出る事は ほとんどありません。
つまり、私か母が感染して
父に感染させてしまったという事です。

2020年のコロナ禍から
高齢である父、高齢である上に心臓の持病がある母

二人には 絶対に感染させてはいけないと
細心の注意を払ってきました
 
なんとか これまで感染しないで済んでいました。

新型コロナウイルスが5類に移行され、
マスクの着用も自由化になりましたが

私も母も、これまで通り、
細心の注意を払って 生活することで、
感染を防いで行こうね と話し合い、
コロナ禍と同じ対策をして
生活をしていました。

それなのに…私の不注意で、
父に感染させてしまった。
その事実に 私は愕然としました。

クリスマスの数日前に 母が鼻風邪をひき、
少し咳も出始めたので、薬を飲んで
2日ほど横になっていました。

熱は無く、3日目には ほぼ回復していました。

その後、父も咳をし始めたので
あまり負担の掛からない
漢方の葛根湯(かっこんとう)という
ドリンクタイプの風邪薬を飲ませました。

熱が 37度5分  まで一時上がりましたが、
翌日以降は 平熱に下がっていたので
ホッとしていました。

でも、その後すぐに 私がダウンしました。

鼻風邪だったのですが、鼻が詰まり
口呼吸をしていたら 喉が痛くなり発熱しました。

初めは 37度5分くらいだったのですが
寒気が強くなり、夜中に39度を突破。

インフルかと思ったのですが、
取り急ぎ、夜中だったので フラフラ起き上がり
風邪薬を服用。朝になると 
37度8分くらいまで下がっていました。

以前インフルになった時は
風邪薬を服用しても 全く熱が下がらなかったので
『インフル』ではないのかな? と。

でも、また夜中になると 38度超え。
薬を飲むと、翌朝は37度台前半に下がっていたり。

あ〜 でも素人判断はダメだ。
やっぱり病院へ行って、診てもらおう!と
思った日は、もう病院が年末年始の休みに
入っていました。

発熱した時に すぐに病院へ行くべきでした。

どうしよう…救急病院へ行こうか…
と思ったのですが、熱が37度前半から
上がらなくなったので

『これなら大丈夫かな』と安心した私は
そのまま風邪薬を服用して、
暮れには 日常に戻っていました。

でも、父は咳が治らずにいました。

年が明けて、段々と咳が痰がからんだような
つらそうな咳になっていました。

熱は無かったのですが、トイレなど
自分で立ち上がっていたのが
立ち上がろうとしなくなりました。

『苦しい? 立ち上がれなくなっちゃった?』
と聞いても、何か喋っているのですが
なんて言っているか 全く聴き取れず…。

やむを得ず 以前 父がパーキンソン症候群の
疑いで 動けなくなった時に使っていた
介護用紙オムツを引っ張り出して 使用しました。

食事は おかゆを すり鉢でさらに細かくして
噛まなくても大丈夫な状態にして

スプーンで口元に持っていくと 
口を少し開けるので むせないように
気を付けながら 少しずつ食べさせていました。

普段の量の2/3くらいは
食べてくれていました。

父が診てもらっている病院が 1/5〜だったので

『5日にすぐ病院へ連絡して、往診してもらおう』と
母と話していたのですが 

前日の4日から 
食事をほとんど 食べなくなりました。

5日の朝も、食べられたら 少しだけでも、と
おかゆを口元へ運びましたが
全く 食べようとしませんでした。

もう少しで 病院に電話できる時間だったので、
時計を見ながら 落ち着かずにいたのですが
その時、父の呼吸が とても荒く、
早くなってきました。

とても苦しそうで、声を掛けても反応がありません。

慌てて 119番に電話しました。

救急隊が間もなく到着し、父の意識レベルなどを
確認していましたが、反応なし。

しかも、熱が40度2分 と言われました。

すぐに都内の大学病院へ搬送されました。

救急車の中でも、父の血圧がどんどん
下がっていきました。

どうか早く到着して!!と祈り続けました。

やっと病院に到着すると
医師や看護師が外で既に待機されていて、
父はすぐ処置室へ運び込まれました。

私と母は受付前で待つように言われました。

待っていた時間は 1時間くらいだったと思いますが
とてつもなく 長く感じました。

担当医師が出てこられ、
『かなり厳しい状況です。重度の肺炎を起こしていて
血圧もどんどん下がってきています。
それと、新型コロナも陽性でした。』

母と私は 言葉が出ませんでした。
父が新型コロナウィルスに感染していた…?

さらに医師からは
『全身にコロナウィルスだけでなく、様々な菌が
まわってしまっていて、ショック状態です。

もし、脳を覆っている髄膜(ずいまく)にも
ウィルスや菌が入ってしまっていたら、
髄膜炎を起こしているかもしれません。

そうなれば、髄膜炎の治療も早急に行う必要が
あります。 髄液検査をしたいのですが、
同意頂けますか?』と何枚かの書類を渡されました。

脊髄の腰の部分に穴を開けて、
脊髄の中に流れている髄液を採取するという検査。

かなりの痛みを伴う検査なので
局所麻酔をして、患者さんの苦痛を
少しでも 少なく行うようにします、と。

でも、その局所麻酔自体が 激痛だと
聞いた事がある…。

渡された書類には 図解で検査方法や、
検査に伴う副作用などが書かれていました。

こんな苦しい思いをして、危険な状態の父に
激痛を伴う 苦しい検査を受けさせなければ
ならないのか…。

体が震えましたが、必要な検査と説明を受け、
震える手で書類にサインしました。

医師が処置室に戻っていき、検査が終わるまで
1時間以上待ちました。

この間に、父が激痛に耐えながら
髄液の採取をされていると思うと

『私のせいだ。私が高熱を出した時、 
きっとコロナだったんだ!
私がすぐに病院へ行かなかったから
父に移してしまったんだ。

その結果、生死をさまよわせ、苦しい思いをさせ、
こんな激痛を伴う検査まで受けさせてしまった!』

体の震えが止まらず、涙が溢れました。

再び医師がやって来て、
検査は無事終了しました、と言われました。
安心したような、でも 父の苦痛を思うと
複雑な気持ちでした。

『本当はこのまま安静にしたいのですが、
あいにく当院は今、満床で入院が出来ません。

転院先を探しますが、コロナ陽性だと、
受け入れ体制が整っている病院の中から、
さらに受け入れてくれる所を探さないといけないので
時間が掛かる場合があります。

日にちが変わっても
見つからないケースもあります』
との事でした。

新型コロナウィルス陽性の父と
同居していた事から、念の為と
母と私は 小さな個室に案内され、
ここで待つように言われました。

『私たちも感染してる可能性があるから、
周りの人に移さないよう 隔離されたんだね』
確かに 当然の対応です。

コロナの感染、ということの重みが
ひしひしと実感として湧いてきました。

かなり長時間待つ事を覚悟していましたが
1時間ほどで、転院先が決まりました、と
受付けの方が呼びに来てくれました。

父のいる処置室の入口まで案内され
中には入れませんが、扉が開いていたので
横たわる父の姿が見えました。

床に一箇所 血の跡があり、
髄液検査の時の血ではないかと思いました。

『ごめんね…お父さん』
マスクで必死に隠しましたが、
涙が止まりませんでした。

転院先へ搬送してくれる救急車が到着すると
医師が、父の気道確保のため装着していた
器具を 口の中から外そうとしていました。

その時、ぐったりとして動かなかった父が
医師の腕を押さえるように 片手を上げて
とても苦しそうな 悲鳴にも聞こえる
声を上げました。

私は 泣きながら 耳を塞いで
心の中で 父に謝り続けました。

父の治療をしてくださった担当医から
引き継ぎを受けた別の医師が同行してくださり、
入院先の病院まで、父は再び救急搬送されました。

父は処置室へ一旦運び込まれ
私たちは 入院手続きをするよう言われました。

そして私たちは コロナの検査を受けました。
私は絶対に陽性だと思っていましたが、
母も私も 陰性でした。

私は熱も下がり、父に移して 陰性になったのか…
そう思うと、自分が許せませんでした。

処置室の前で 母と待っていると
父の担当医という医師が来られ、
私の隣に座りました。 

『お父様は、新型コロナ陽性と重篤な肺炎、そして
コロナウィルス以外にも様々な菌などが
全身にまわってしまっていて、ショック状態です。

血圧もかなり下がっています。
コロナの治療薬、血圧を上げる薬も
投与していますが
ご高齢なので、どこまで持ち堪えられるか…。

正直申し上げて、最悪の結果も覚悟して頂かないと
いけない状況です。』と告げられました。

『お父様の 命が危ない事態になった時、
特別な延命措置を 希望されますか?』
と、医師に聞かれました。

『心臓マッサージや、気道確保の気管挿入…』
いくつか 延命措置の例を挙げて説明されました。

母に どうする? と、目で確認すると
黙って顔を横に振りました。

私も、これ以上 父に苦しい思いや
痛い思いをさせてまで、無理矢理
父の命の期限を引き延ばしたいとは
思えませんでした。

『希望しません…』
医師に そう伝えると、書類にその旨を記入し、

『コロナ陽性ですと、入院中、面会は出来ません。
今、少しだけなら処置室に入れますので、
お顔、見て行かれますか?』と聞かれました。

『今、会えるんですか?』
『はい。少しだけなら』

私と母は すぐ処置室に向かいました。

中に入ると、父がたくさんの管に繋がれて
ぐったりと横たわっていました。

看護師さんが
『しばらくの間、会えなくなりますからね…』
と、言って、少しの間、家族だけにしてくれました。

『お父さん、わかる? お母さんもいるよ』
耳元で声を掛けると、うっすらと目を開けました。

少し目を動かして私たちを見ましたが
すぐに目を閉じてしまいました。

意識が朦朧としていたのだと思います。

母も私も泣きながら
父の手を握ったり、おでこを撫でたりしましたが
反応はありませんでした。

私は父の頭を撫でながら
『お父さん、ごめんね。苦しい思いや、
痛い思いをさせて、本当にごめんね。』と
耳元で謝り続けました。

父との時間は 本当に3〜4分の
短いものでした。
父の手を ぎゅっと握って 処置室を出ました。

看護師さんから
『本日は、これでお帰り頂いて構いません。
面会は出来ませんので、病状の確認は
お電話頂ければ、看護師に繋ぎますので
そちらで確認頂けます。 

病状の悪化や急変など、緊急時はご連絡致します』 
と、説明を受けて 母と私は帰宅しました。

家に着くと、父が救急搬送された時のままの
状態でした。

今朝まで 父が寝ていた布団も搬送時のままで
母は、見るのがつらい と すぐに
父の布団を畳んで、押し入れにしまい込みました。

ふと見ると、父が寝込む前に 散らかしていた
父の私物の 本や、DVD、昔のカセットテープ
などが 綺麗に片付いて 整理整頓されていました。

『これ、お母さんが整理したの?』
『ううん。私は片付けてないから、お父さんが
自分で片付けたんじゃない?』

元々、父は几帳面で 自分の趣味の私物でも
仕事に関する物でも、いつも綺麗に
整理されていました。 

でも、認知症になってからは
色々と引っ張り出して 散らかしたまま
『こんなに散らかしたら、
布団も敷けないでしょ!』
と、母にいつも怒られていました。

『こんなに綺麗に片付けて…
まるで、今日こうなる事がわかっていた
みたいに整理されてる…』と
母が涙をこぼしました。

父が使っていた チェストの引き出しの中も
綺麗に 整理整頓されていました。

その中に、綺麗な柄の巾着袋が
2つ 並んでいました。

2つとも、中に5〜60枚の写真が入っていて、
ひとつは、私が生まれたばかりの頃から、
最近のものまで 成長過程がわかるように
年齢順に 重ねられていました。 

もうひとつの袋には、母の写真が入っていて
若い時から、最近の写真まで、
やはり年齢順に重ねられていました。

そして、母も私も気付かなかったのですが
キャビネットの上に何冊か
父が好きで読んでいた本が並んでいて
その本と本の間に、父と母が二人並んだ
結婚式の写真が挟んでありました。

母も 私も 泣き崩れました。

父が最近、昔の写真を引っ張り出して
毎日眺めていたことは知っていました。

時々、私の子供の頃の写真や、母の昔の写真を
ニコニコしながら 何枚も持ってきて、
そのまま置いて行くので、私も母も

『こっちに持って来ても邪魔だから、そっちに
まとめて置いといて😫』と、ろくに見もせずに
父に返していました。

こんなに 母と私の写真を 
大事にしてくれていたなんて…

あんなに いつも一緒に過ごしていたのに
私たちは 全く気付かなかった

会えなくなって 離ればなれになって
父の命が尽きてしまうかもしれない時になって
やっと気付くなんて

その夜は 病院から連絡があるかもしれない事を
覚悟して過ごす夜になりました。

私は、 また父に会いたい。
母や私のことが わかる状態に回復した
父に 会いたい。

会って これまでの事も
コロナに感染させてしまった事も
親不孝な娘だった事も
ちゃんと謝りたい。

そして、大好きだよ と伝えたい。 

でも、父が 長く 苦しい思いをしたり
痛い思いや つらい思いをするのであれば

父を苦しさから解放してあげてほしい
父を楽にしてあげてください…と祈りました。

本当に 長々と 私の後悔や 
父への贖罪の気持ちばかりを書き連ねた
ブログになってしまいました。 

命の誕生なら 幸せな気持ちになりますが
その逆の話しなので…。

不快な気持ちにさせてしまっていたら
本当に申し訳ありません。  

このような内容の、しかも長ーーい話しを
最後まで 読んでいただき
ありがとうございます🙏

心から 感謝いたします。

次回、▶▷続▶▷ 不思議体験③ へ続きますが

もう少し 前向きで💦
もう少し 短い内容で💦💦

不思議体験も書いていきますので
また 読んでいただけましたら嬉しいです照れ

 笑い泣きよろしくお願いしまぁぁぁぁぁぁぁぁす笑い泣き

  ✨ありがとうございます✨