私が31歳のときに母親が病気になった。

 

大病などしたことのない人だったし、

祖母や親せきを見ていても、元気に年を重ねていくのだろうと

勝手に思っていた。

 

けど、その母が、病気になったことを気に、私の生活は崩壊した。

 

最近になって思うけれど、崩壊したのは、生活だけではなく、

心だったなと思う。

心と言うか、人格と言うか。

それまでの私とは全く別人になってしまったと思う。

私は私じゃなくなってしまった。

 

もう一度、人格形成をし直さなければならないほど、

母の存在は大きかったのだ。

母がいることありきの人格だった。

 

母が毎日、話を聞いてくれる。

母が毎日、おいしいごはんを作ってくれる。

母が毎日、着心地のいい服を用意してくれる。

母が毎日、居心地のいい家を保ってくれる。

 

その当たり前の衣食住と家族としての暮らしが

一気になくなってしまったのだから、

私が生まれ変わる必要があった。

 

仕事だけして、楽しく過ごしていればいい暮らしから、

私が稼いで、そして暮らしも支えなければならなくなった。

そして一番悲しかったのが、母と会話が出来なくなってしまったことだ。

 

なんてことない、どうでもいい、生産性のない会話が

自分を作っていたのだから。

 

そのすべてがなくなってしまっても、私は生きなくてはいけない。

私が、私じゃなくなっても、私は生きているのだ。

 

最近、この街で暮らすようになって、

自転車で、山々や川をみていると思うことがある。

 

いつか、私が私を取り戻した時に、

今の私がしっかり生きていたと覚えていてほしいと思う。

 

自分を見失っても、その間もしっかり私は、生きていた。

見失ったまま、それでも生きていた。

 

知らない街で一人で暮らして、

山間の街を、都会の街で暮らしていたころと同じように、

風を切りながら、自転車で走っていることを。

 

私は私を見失っているけれど、

それでもあの頃と変わらないことを、今もしているのだ。