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むろあつみの勝手に応援!

~安房で活躍する安房育ちの人たち~

~安房で活躍する人を応援しています!~

 

今回は、南房総市に工房を構えるうつわ作家の志村和晃さん、42歳。

 

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◆やりたいことが見つかるまで

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中学、安房高時代は、柔道に明け暮れていました。

3つ上の兄も柔道部だったので、高校では入らないと思っていたのに、先輩の「熱心な」勧誘にあい、「熱心な」指導があり、朝練、昼連、放課後も練習、という生活でした。

 

 

大学受験に失敗してしまい、でも浪人して勉強するのも嫌だったので、東京のデザイン系専門学校に進みました。特に目標があったわけでもなく、絵をかいたり物を作ることに多少興味があったので、専門学校の資料をみて何となく決めて。この頃は、授業だけは受けていましたが、ある意味「闇の時代」でした。

 

卒業後、フリーターのような状況で、特にやりたいこともなく色々なアルバイトをしていました。

スターバックスのアルバイトが楽しかったので、社員を目指そうかとも考えましたが、上司と話してみると、売上や利益の数字も考えなければいけない、それはやりたいことと違うような気がしてやめました。

 

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◆25歳で覚悟を決め、2度目の専門学校へ

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25歳の時に母親が亡くなり、このままではいけない、やりたいことは何なのか、と真剣に考えました。

専門学校の時に色々な種類の工芸を学ぶ中で、陶芸の授業が楽しかったことを思い出して、もう一度きちんと勉強してみることにしました。

学校案内を見て、設備が充実していること、職人を養成していることが気に入って、京都伝統工芸大学校に2年間通いました。

 

学校は、京都の田舎にあり、他にやることもありません。

毎日、休みの日も、淡々と、同じものを何個も作る練習をしました。

指定されたものを寸分たがわず100個単位で作り、同じものが作れるようになったら次の課題へ進める、という授業でしたので、高卒で中途半端な気持ちで来ている人はなかなか続きません。

感性を活かすアーティスチックなものとは違うかもしれませんが、同じものが揃ってできると嬉しいし整っていてカッコいいと感じました。

絵付けの方は、小紋の決まった柄をきれいに早く描くことを習いました。

 

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◆加賀の九谷焼の師匠に弟子入り

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夏休みに先生や先輩のつてで色々な工房の見学をして、卒業後は石川県加賀市、山背陶房に就職しました。

山中温泉という雪深い山の中の雰囲気や、師匠の人柄や考え方が気に入ったからです。

 

後から知ったのですが、師匠の正木春蔵氏は九谷焼でかなり有名な方でした。

京都の学校では、形がきっちりそろっていて絵もかすんでいてはダメ、と習いましたが、手で描くのだから多少違ってもいい、もっとおおらかでいい、というところが気に入りました。

骨董品を沢山持っていましたが、従業員にも食卓で惜しみなく日常に使ってくれて、持ち寄りで食べる会などもやってくれました。

奥様がろくろを回しご主人が絵付けをするという二人三脚で、元からいた女性1名のところに同期の弟子が一度に3人入り製作していました。

工房の事情により3人とも1年で卒業、ということになりました。

 

▼有限会社山背陶房

https://www.facebook.com/yamase1976

 

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◆益子での修行後、独立

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いったん館山の実家に戻り、今後のことを考えました。

京都では職人のように淡々と同じものを作ることを習い、それでも良かったのですが、作家として独立した方が良いのか、あやふやな状況だったので他の産地でもう少し勉強してみようと思い、関東で一番近い栃木県の益子焼協同組合に電話をして雇ってくれる窯元を探しました。

 

最初は先輩が作ったものを窯に詰めたり焼いたりという雑務ですが、終わってから練習するようになりだんだんと作れるようになってきます。

益子では、年に2回、陶器市が開かれ、いつもは2万人強の人口の町に10日間で50万人もの人がやってきます。

工房のテントを借りて、上手くなると名前を出して売っても良いとなります。

普段働きながら、窯を借りて自分のものを売るようになり、思ったより売れて自信がついていきました。

 

結婚もきっかけになり、32歳の時に工房を辞めて独立しました。

窯もある貸し工房を借りて、益子陶器市や催事に出品して注文を受けるようになりますが、それほど仕事がないので“賃引”も引き受けていました。粘土が支給されて焼く前まで作って工房に納める下請けのような仕事です。

他の先輩から、せっかく京都で習った磁器に絵付けをする技術を活かしたらどうか、というアドバイスも頂いて、自分のスタイルを作っていきました。

 

▼益子陶器市

http://blog.mashiko-kankou.org/ceramics_bazaar/index.shtml

 

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◆安房に戻ったいきさつ

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奥様は船橋に住んで東京で仕事を続けながら子育てをして、遠距離の結婚生活を続けていました。

もう少し近くで陶芸をできるところを探していたのですが、実家なら融通が利いて倉庫もあったので、2014年に館山で工房を始めました。

友人の窯職人に窯を作ってもらい、その他にも初期費用は200万円くらい。

 

平日は館山で仕事をして、週末に船橋で家族で過ごす生活でしたが、3人目が生まれて流石に大変になり、家族全員で館山に移りました。

 

益子焼陶器市への出品は今も続けていて、取引先はほとんどここで開拓できています。

全国から作家も集まり、見本市のようになっているのです。

 

最近、南房総市に工房付の住居を見つけて引っ越しました。

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◆インタビューを終えて

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目指すのはアーティストではなく、「うつわ作家」と称する職人、のようですが、控えめに淡々と肩の力の抜けた話し方がとても印象的な方です。

また食べるのが好きだという志村さんの作るうつわは、レトロな雰囲気もありながら可愛く、料理が映えてお勧めです!

 

▼awan kiln

南房総市沓見1390

フェイスブック https://www.facebook.com/awankiln

インスタグラム https://www.instagram.com/kazuakishimura/

 

 

▼この記事を書いていて見つけた志村さんの取材記事

https://hokuohkurashi.com/note/191721

https://niwanowa.info/circles/05/31/9689/

 

▼ドキュメンタリー動画「うんともすんとも日和」

https://www.youtube.com/watch?v=v60Zy4t8WK8&list=PLEqLkMA6K-8dNEDp-qtnNu5HwUcPcYPzB&index=13

 

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#頑張る人を応援する 文化を作りたい

 

 

 

 

 

~安房で活躍する人を応援しています!~

 

今回は、白浜の柔道整復師・鍼灸師の峯龍太さん、33歳。

今年5月、野島崎灯台たもとで「みね鍼灸整骨院」を開業しました。

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◆いずれ独立するつもりで東京で修業した20代

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生まれ育った白浜の土地や人が大好きで、祭りも楽しくて、一度は東京に出ても地元に帰ってきたいと思っていました。

仕事がなければ自分で仕事を作ればいいと思い、親も好きなことをやれ、と言ってくれていました。

 

安房高校の時から柔道をやっていたので、「接骨院」は身近にあり、柔道整復師の資格が取れる学科のある大学を選んで通いました。

 

大学卒業後はそのまま東京で接骨院に勤めましたが、夜間に専門学校にも通って鍼師、灸師の資格も取りました。

最初に勤めた接骨院は、従業員5人で1日に80~100人ほどの患者さんが来られるお店でした。

技術を覚えることもそうですが、とにかくコミュニケーションが苦手で、最初は患者さんとあいさつや天気の話くらいで、話が続きませんでした。

院長から「相手から気持ちを感じ取るように」とのアドバイスを受けて、少しずつ話せるようになってきました。

 

東京で6年間勤めた後、もう少し技術を学びたくて、地元の接骨院に4年間勤めました。

ここではたくさんの機械があり、その使い方を習ったり、2店舗目を出す時にそこを任せてもらったりしました。

またその頃、館山のスポーツジムでトレーナーもしていました。

 

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◆32歳で独立・開業

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今年5月、「みね鍼灸整骨院」を開業しました。

両親が野島崎灯台のたもとで「見晴亭」という食堂を経営しているのですが、その建物の1階の土産物屋の一角の物置になっていたところを改装して使わせてもらっています。

機械は、少しずつ増やしていくつもりです。

 

患者さんは、けがの学生や60代以降の慢性疾患の方が多いです。

宣伝は、チラシを手配りしたり、房日新聞の広告やインスタ等で行っています。

昔から、白浜で整骨院をやりたいと言っていたので、知人が口コミでも宣伝してくれています。

 

最初から独立するつもりだったので、東京で勤めていた時にも分院を任せてもらい、色々な経験を積んできました。チラシを作って朝ポスティングしたり、商店街のイベントに顔を出して地域の仕事をしたりしたこと、また保険管理や経費など、経営面のことも学んでいたので、比較的スムーズに独立できたのだと思います。

 

独立して、多少の不安はありますが、責任も強く感じるようになり、今までこのために修行してきたので頑張るぞーという気持ちで楽しく過ごしています。

和田に勤めていた時に知り合った奥様と二人三脚で、明るい整骨院です。

コミュニケーションが今でも課題、とのことでしたが、特に高齢の患者さんからの評判はすこぶる良いです。

 

奥様にも「みね鍼灸整骨院」の特徴をお聞きしました。

『患者様とよく話し合い、コミュニケーションをとることでケガの治療だけでなく、心身共に健康を目指し、生活の質の向上を目標としています。

また、外傷のみでなく自費診療としての慢性的な痛みの治療も行っていて、交通事故のケガや、労災によるケガの保険も対応しています。』

 

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※ところで、柔道整復師とは・・・

「柔道整復師」ってどんな資格なのか、私も詳しくは知らなかったので調べてみました。

 

▼公益社団法人柔道整復師会HPより

https://www.shadan-nissei.or.jp/judo-therapist/

 

接骨院、整骨院、ほねつぎという名前は、柔道整復師の資格がないと使用できないそうです。

資格を取得するためには、高校卒業後、専門の養成施設か、文部科学省が指定した四年制大学で解剖学、生理学、運動学、病理学、衛生学、公衆衛生学などの基礎系科目と柔道整復理論、柔道整復実技、関係法規、外科学、リハビリテーション学などの臨床系専門科目を履修して、国家試験を受けて合格する必要があります(厚生労働大臣免許)。

 

接骨院や整骨院では、柔道整復師によって、骨・関節・筋・腱・靭帯などに加わる外傷性が明らかな原因によって発生する骨折・脱臼・打撲・捻挫・挫傷などの損傷に対し、手術をしない「非観血的療法」によって、整復・固定などを行い、人間の持つ治癒能力を最大限に発揮させる施術を行っています。

 

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◆地域を盛り上げたい

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先ずは本業を軌道に乗せていくことが最優先ではありますが、将来子どもができた時に、ここに残れと言えるように、白浜や安房地域を元気のあるまちにしていきたいと考えています。

1人ではできないので、地元に残った人間で仲間を集めて。

近いうちに弟さんが戻ってきて見晴亭を継ぐ予定もあるそうです。

楽しく過ごすことができた地元に「恩返し」をしていきたい、という熱い思いを語ってくれました。

 

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◆インタビューを終えて

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複数の知人からの評判がとても良かったので、初対面でしたが取材させて頂きました。

ご本人の人柄もさることながら、お父様も素晴らしいなぁと思いました。

(見晴亭で食事をしながら色々お話をお聞きしました)

 

「仕事がないから帰って来られない、ではなく自分で仕事を作ればいい」という子育て。

こういう親御さんが増えれば、生きる力のある若者がこの地域にも増えていきそうですね!

 

▼みね鍼灸整骨院

南房総市白浜町白浜623-14

TEL 0470-28-4690

インスタグラム @mine_shinkyu_seikotsuin

 

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~安房で活躍する人を応援しています!~


今回は、株式会社ル・ファーレリゾート代表の山口惠子さんです。
 

出身地の白浜で貸別荘を経営している他、令和元年房総半島台風の復興ソングプロジェクト「虹を見たかい~Have you seen the rainbow?」など音楽を通じた地域貢献活動も積極的に行っています。

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◆自分で何かやりたいと始めた英語教室
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早稲田大学在学中に1年間イギリスに留学した後、東京の南青山で2年間サザビー(株式会社サザビーリーグ)に勤め、広報を担当していました。


ずっと「自分で何かやりたい」と思っていたのですが、青山だと家賃だけでもとても高くてなかなか難しい。祖母が亡くなってその家を使っても良いと言われ、白浜に帰ってくることにしました。
 

今でいう「リノベーション」を行い、そこで英語教室を始めました。
その頃は子どもの数も多くて大盛況。
多い時は保育園児~18歳まで140人くらいの生徒を抱えていました。

また、ピアノも教えて欲しい、という生徒もいてピアノ教室も同時にやっていた時期もあります。

 


(8年くらい前、神余小の放課後子ども教室での授業)

 

英語教室は結局13年間続けましたが、これを辞めることにしたのは自分の子どもと過ごせる自由な時間がないという悩みが出てきたためです。


もう少し時間に余裕のある仕事はないかと考え始めたころ、慶応大学卒業後に東京で働いていた以前の教え子から、「房総に帰ってきて起業したい」という相談を受けたので2-3年ほど一緒にやってから教室を引き継いでもらいました。今は館山にある「ランゲージ・ラボラトリー」という塾になっています。
 

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◆南房総を高く売りたい
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英語教室の次には、貸別荘を始めることにしました。
 

日本で民泊が広まる前のことでしたが、ヨーロッパでは自宅を貸すビジネス(バケーションハウス)があり、これをやってみたいと考えたのです。
1棟から始めましたが、今では3棟に増やし、各棟にスタジオを備えています。
平日はアーティストが制作のために来られ、土日は会社員が趣味の音楽の合宿をする、というような客層となっていて、ニーズがあったと思っています。

 

(ル・ファーレのスタジオにて)
 

実は、それまで「バンド合宿ができる場所」というと、自分が行きたいようなところはなく、女性が行きたくなるような宿を目指しました。ハイクオリティなものを生み出す人にはそれ相応の場所が必要です。南房総を高く売りたい、深い満足を狙いたい、そしてそれが信頼に繋がる、と考えました。
そのため、設備投資にはかなりのお金をかけて、特に“音”にはかなり神経を使いました。
 

良いものがあればお客様は来ると確信していた通り、今では有名アーティストもたくさん訪れる人気のリゾートスタジオとなっています。
 

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◆音楽を通じた地域貢献活動
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音楽に触れたのは4年生の時。
長尾小学校の鼓笛隊でトランペットを吹いていました。
中学・高校ではブラスバンドで、館山吹奏楽団にも所属していました。
早稲田大学でもビッグバンドでジャズに親しみました。
 

年に一度、南房総の音楽好きが大集合する「ライトミュージックフェスティバル」には、スタート時から子ども達と参加していました。
 

一昨年の25周年にゲストとして呼ばれ、企画を考えていたところへ台風15号がやってきました。

そこで、台風で辛かった日々を振り返って復興ソングを作り、南房総の代表的なシンガーが参加する“We are the world”みたいなことをやりたいと考えました。
 

ところが今度はコロナ禍で、フェスティバルを含むあらゆるステージがなくなってしまいました。
ふさぎ込んでいるみんなを元気づけたいと思い、「動画で発信しよう」となりました。
ワンフレーズずつ歌ってもらった動画をつなぎ合わせて発信していって、どんどん話題になっていきました。
 

その後、復興ソングのCD収益金で行政や神社等に寄付していたのですが、自分たちの得意な音楽の力で南房総を盛り上げようと考え、今年は文化の日を中心とした1週間、「枇杷倶楽部」「鄙の里」「ローズマリー公園」3つの道の駅を舞台にした「南房総×LovePiano 音楽の種まきプロジェクト」を企画しました。
 

予想をはるかに超える多くの方がピアノを弾きに来たりミニコンサートを聴きにきたり、大盛況のうちに幕を閉じました。
 

このプロジェクトについて、FBで惠子さんは以下のような感想を記されています。
”台風からの復興を願い、「音楽」というただ一点で繋がり合って、コロナ禍にただ1曲をみんなで歌うことを夢見てやってきた私達の復興ソングプロジェクトは、気がつけば、地域に音楽で笑顔を届ける素敵なコミュニティになっていました。”
 

 

 


 

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◆南房総地域への思い
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幼少時代に自然をみて育ったことで、自然の持つ本物感を体感し、モノを見る目が深くなったと感じています。
 

今までは色々なことが画一的でピラミッドの頂点が都会だったけれど、今、それが崩れて多様性の時代になってきています。ネットで様々な情報も入手できるし、複数の視点があることが重要と考えています。
 

「母親アップデートコミュニティ」に参加して、社会課題の解決も目指しているのですが、その場合、都会よりも田舎の方がちょっとしたことでも大きなインパクトになります。
今回の音楽の種まきプロジェクトでもそのことを実感しました。
房総にいることで、おもしろさややりがいも大きくなると感じています。
 

今は、息子さんが中学受験をしたため、平日は習志野、週末は白浜という二拠点生活を満喫しています。
これからしばらくの間、高校3年生になった息子さんの受験サポート、という最後のお母さんの仕事を頑張りたいそうです。
 

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◆インタビューを終えて
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惠子さんのSNSの発信などを見ていると、凄く精力的に活動されてパワフルな方だなぁと思っていたのですが、お会いしてお話を聞くと、肩ひじ張らず、成り行きに身を委ねているような感じさえします。
大変なことも乗り越えられてこられたのだと思うのですが、そういうことを感じさせない自然体の佇まいが、人々を惹きつける魅力に思えます。
 

今回の“音楽の種まき”プロジェクトのその後について、ぼんやり考えていることはあるもののまだ白紙状態だそうですが、きっとまた、私たちを感動の世界に連れて行ってくれることでしょう。

 


 

▼ル・ファーレ白浜HP
http://le-phare.jp/
南房総市白浜町滝口5792-2
TEL  0470-38-2320
 

▼復興ソングプロジェクトHP
https://www.facebook.com/groups/688626691908838
(インタビュー日 令和3年11月7日)
 

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安房で活躍する人を応援しています!

 

今回は、ワンズディ―代表の石井唯行さん、44歳。

館山市畑の出身。

東京で会社を立ち上げ、館山での事業にも乗り出しているところです。

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◆とにかく“働きたくない”一心で海外へ

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中学生の時、夢を持つ同級生と違って、やりたいことがないまま高校に進学。

高校を出ると就職する人が多かったけれど、「社会人=暗い世界」としか思えず、大学へ。作文と面接だけの試験で拓殖大学夜間の短大に何とか滑り込み、途中で大学に編入することができました。

 

ただ、大学でも結局やりたいことが見つからず、就職活動をする気が全く起こりません。

今から思うと、ある意味“反抗期”だったのかもしれない、とのこと。

社会のレールに乗りたくない、周りと同じことをしたくない、という気持ちで、金髪にしてへんてこりんな服装をしたりしていました。

 

「どうすれば働かなくてよいか」と悩んでいた時、ワーキングホリデーで海外に行っていた先輩から手紙をもらい、「これだ!」とひらめきました。「海外へ留学する」と言えば就職しなくても周りも納得するだろうと。

先輩から150万円は必要だと言われたので、必死で貯めて卒業2年後に1年間、オーストラリアに行くことができました。

 

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◆海外での経験

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オーストラリアでは、2か月のホームステイ(仕事を手伝う代わりに無料で)以外は、ほとんどキャンピングカーで生活していました。

現地発着ツアーなどに参加すると、貯めたお金はすぐに底をついてしまいます。アルバイトをしてまたツアーに行く、ということを繰り返していました。

 

 

実は英語が苦手だったので、アルバイトといっても肉体労働くらいしかできず、主に農場で収穫作業でした。これが非常に重労働。地平線が見えるような広大な畑で玉ねぎのような根野菜を引き抜くのに腰が痛くなり鋏を使うので手が痛くなり、においは凄いし、朝4時から死に物狂いで働いても1日5~6千円にしかならない。

ただ、これで相当な忍耐力がついたことは確かです。

 

 

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◆あがり症でも営業成績でトップになれた

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1年間の海外生活は大変だったけれど、色々な人に出逢って楽しくて。また行きたい!そのため「とにかく早く稼げる方法はないか」と考えていたところ、就職誌でケーブルテレビの営業を見つけました。

「月70~80万円も夢ではない」と。

それで飛び込んだのがジェイコムの板橋営業所でした。

 

あがり症だし、文章を書いたり読んだりするのが苦手、どちらかというと無口なタイプなのですが、2週間の研修の後、6か月で営業所70人中トップに、そして1年足らずで全国3千人の営業トップになりました。

 

(営業トップの時に雑誌の取材を受けて)

 

なぜなのか、当時は分からなかったのですが、今、分析して人生を振り返ってみると、幼少時の経験が思い当たります。

 

1つは、お金を稼ぐ喜びを知った豊房小学校での出来事。

当時、「フキ取り体験」みたいなことをやっていて、学校にフキを持っていくとお金に変えてくれたました。

たくさんお金が欲しくて、一所懸命に鎌を研いだり、太くて長いフキがどこにあるか事前にリサーチしていたことが記憶に焼き付いています。

 

2つめは、父に連れて行ってもらっていた釣り。

山の中での鯉釣りは結構難しく、釣り竿の長さやえさや浮き、糸の太さなどすべてを考えてシミュレーションしていました。

 

営業で大事なことは、勝つための戦略的思考と熱意。

「海外にまた早く行きたい」(そのためにとにかくお金を稼ぎたい)という必死の思いで誰よりも働きました。

アポをとにかく沢山入れ、そのアポを取るための戦略を常に考えていたのです。

 

営業でトップに立つと、初めて周りから評価されて、それが嬉しくなりました。

また、気づくと仕事が嫌ではなく、むしろ楽しくなってきていました。

 

仕事に没頭していると、成果があがり、お金も増える。

さらにお客様にも喜ばれ、それがリピートにつながる。

仕事って、こういうものなのか、と思うようになったのです。

 

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◆会社設立、新規事業で地方創生

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営業成績が良かったので、別のケーブルテレビの会社から、「営業を業務委託する形で建て直しを手伝って欲しい」という話が来たことから、31歳の時に現在の会社、ONE´S-D(ワンズディー)を設立しました。

 

前の会社で首を宣告されていた2人を雇って、マニュアル的に営業の方法を教えてスタートは順調でした。

それから顧客の要望に応える形で通信工事の仕事、さらに人材派遣等と業務範囲を広げていきました。

 

会社設立から約10年経ち、クライアントもできて安定期に入ったこともあり、40歳になる頃に「地方創生事業」を始めました。

現在約60人の社員のうち、約10人が館山で働いています。

 

社員のモチベーションをあげるためには、困りごとを解決する、社会貢献に直結することをやりたいと考えたのですが、都会ではなかなかそういう仕事がありません。

例えば「なぜ若い人が出ていくのか?」などの地域課題を考えて、その中で事業として解決できるものを手掛けることにしました。

 

先ず始めたのが、空き家・古民家の有効活用やリノベーション。

とはいえ専門家に全て任せるのではなく、DIY的に本人もできるところには参加してもらったり、廃材を利用するなど、昔の家づくりを参考に「コミュニティーを作る」ことを意識しています。

同じ目的を持って一緒に汗をかくことで、土地に対する愛着や思い入れが強まり、守りたくなると考えるからです。

 

さらに、「住む」から「遊ぶ」(観光)にも進出し始めています。

館山市のテレワーク拠点となる『Living Anywhere Commons 館山』(ナミカゼ館山)のリノベーションと運営を受託して、人が集まる空間づくりを進めています。

若い人たちを集めるためにも、お洒落な空間を増やしたいと思っています。

 

(廃材も活用してリノベーションしているナミカゼ館山)

 

このように故郷への関心が高まってきたのは、安房地域の深い歴史を知ってから。

千年も前に阿波からやってきた人たちが、食を求めて山を切り開いて田畑を作り、未来の子どもや孫のために遺そうと想像を絶する苦労をしてきたのだと思うと、これを大事に引き継いでいかなければ、という思いが湧いてきます。

 

昔の集落では、屋根の葺き替えや稲刈りを皆で協力して行っていました。

そこでは自己中心ではなく、コミュニティーの中で生きることに幸せがあったのだろうと思えるようになりました。

 

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◆長期的な目標は人材育成

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移住や二地域居住を増やそうとすると、地域のファンを作らないといけないので、目先の自分のことばかり考えていてはだめ。

若い頃は自分中心でしたが、社会貢献の気持ちを持って働くようになると、人も集まり、事業もうまくいくようになって良い循環に入ることを、身をもって体験しました。

若い人たちにも、仕事を通じてこういうことに気づいてもらいたいと思っています。

 

今後、若い人を採用したり、子どもたちに「フキ取り体験」のようなお金を稼ぐ喜び、楽しさを教えることをしていきたいと考えています。

稼ぐためには、広くアンテナを張り、発想を豊かに考え抜かないといけない。

でも自分の考え次第で稼げる金額が増える喜びを知ると、夢が大きく広がり、働くエネルギーも湧いてきます。

 

地域活性化のためには、こうした人育てが長期的に非常に重要なことだと考えているそうです。

 

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◆インタビューを終えて

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7年前に私が市議選に出た時、「ソーシャルビジネス」でまちを盛り上げたい、と訴えていたのですが、地域課題を事業として解決していくことをと実践されている石井さんには、本当に頑張って欲しいです。

 

2時間のお話の中で、「社会貢献」という言葉が何度も出てきたことも印象的でした。

 

ワンズディーの館山での仕事は、事務所の看板をみるだけでも、「南総トータルホームサービス」「ぷらすむ建築不動産」「房総空き家活用本舗」と盛りだくさんで、市の事業にも食い込んでいて、これからの動向に目が離せません。

 

▼株式会社ワンズディ―HP

http://ones-d.jp/top/

館山の事務所:館山市国分911-1

 

▼Living Anywhere Commons 館山(ナミカゼ館山)

https://livinganywherecommons.com/base/tateyama/

 

(インタビュー日 令和3年9月27日)

 

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#頑張る人を応援する 文化を作りたい

#館山大好き!とみんなが言えるようになるといいな

 

【追記】

房日新聞に、石井さんのインタビュー記事が掲載されました!
▼令和3年12月29日

▼令和3年12月30日

 

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安房で活躍する人を応援しています!

 

今回は、館山市内でケーキ屋さん「プチ アンジュ」を経営している佐々木満子さん、今年44歳。

 

 

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◆どん底の時に夢のお店をオープン

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満子さんが現在の場所にプチアンジュを開店したのは、今から6年前の2015年12月です。

 

実はこの時、精神的にどん底の時で、「注目されなくていい。ただケーキを作って食べてもらえれば」という思いで、自分の居場所づくりとして夢を叶えるためにケーキ屋をオープンしたそうです。

当時は川崎に居ましたが、離婚話が持ち上がったことから館山で物件を探し始めました。9月に空き物件を見つけ、10月に契約、12月にオープンという慌ただしさでした。歯科技工士の弟さんとその友人に手伝ってもらい、一日中こもって自分でリフォームしました。

 

ちょっとしたイートインスペースも作り、もともとは自分1人でやるつもりでしたが、今ではアルバイト3人+助っ人1人で、休みの日に仕込みを行い、多忙な日々を過ごされています。

 

(プチアンジュ、外観)

 

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◆家事の合間のケーキ作りの楽しさが原点

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もともと中学生の頃、両親が共働きで祖母を自宅で介護していたので、満子さんが家族の食事作り、洗濯や掃除など、家事全般を担当していたそうです。

 

その合間で楽しみだったのが、お菓子作りでした。

お金がかかる材料は使えなかったけれど、工夫して作ったものを祖母にあげて喜ばれるのが嬉しくて。余ったものを知人に配ると、お礼に魚や野菜などがもらえ、またお菓子を作って・・・という生活を送っていました。

 

これをもっときちんとした形でやりたい、そのためには自分でケーキ屋をやるしかない、と考えていました。

 

そのため、高校も食品調理を学べる安房拓心高校を希望していたのですが、親は公務員や普通の会社に通うことを希望していたので、進学校の安房高校へ。卒業後、奈良女子大学の家政学部に進学しました。

お金を貯めて辻調理師専門学校に通いたい。そのためには200万円必要なので、学校が始まる前と終わってから、アルバイトをしていましたが、そのうち専門課程が始まると、俄然、授業が面白くなり勉強に熱中しました。“生活健康学”といって身体の仕組みを学ぶために解剖をしたり、健康で楽しく過ごす方法などを学びました。

 

当時のノートを見せてもらうと、ビッシリと文字や図が書き込まれていて、その様子が垣間見られます。

 

 

専門学校に通うことには親がまだ反対していましたが、スーツを着て就職活動するのは気持ち悪く、新宿での企業説明会では吐きそうになるほどだったので、そのまま渋谷のハローワークに行き、横浜のケーキ屋「ロゼダンジュ」に就職を決めました。

 

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◆必死で仕事を覚えた修行時代

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普通は、専門学校を出てケーキ屋に就職するのですが、基礎を知らずに働き始め、厳しく鍛えられました。

師匠のチーフは叩き上げのプロ職人でしたので、懇切丁寧に説明してくれるのではなく、師匠の気配から“盗んで覚える”、そんな修業時代でした。洗い物をしながら師匠が使っている道具は何か探るとか、本でも知識を叩き込みました。チーフが居ない間に仕込み、接客、業者対応を任され、必死にこなしますができないと怒られます。

 

最初の面接の時から自分で店を持ちたいと言っていたので、チーフは、独り立ちしても困らないように店をやる上で気をつけるべきことを教えて下さり、困った時に1人で乗り越えられるように厳しく、頼れる人のいない状況をいつも与えてくれていたのだと思います。

失敗すればチーフが尻拭いをしなければならないのでとても大変なことなのに、本当に偉大な師匠でしたキラキラ

 

仕事時間は一応、朝8時から夜8時までですが、オープンに間に合わないようなら早めに出てきたり、食事は隅の折りたたみ椅子でサッと食べてすぐに戻る、お茶の時間などもありません。

とにかくお店を持ちたくて必死に働きました。

 

 

3年修行をした頃、師匠の友人が川崎にあるお店を辞めて売りに出す話を聞き、自分にやらせて欲しい!と名乗り出ました。

国民金融公庫で500万円借りて、看板だけ付け替えて6年間、お店を切り盛りしました。当初1年は弟さんに手伝ってもらいましたがそれ以後は1人で、軌道に乗ってからは1人雇って運営していました。

 

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◆プチアンジュのこだわり

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18歳で館山を出て20年間のブランクを経て38歳でUターンしてみると、中心部のお店の多くはなくなっていて、賑わいはバイパスと海岸に移ってしまっていました。

また、観光客相手に観光客価格で観光商品を売っているのをみると、寂しい気持ちになりました。

 

地元の人の楽しみを増やす、地元のひとのためのお店を作りたい、と考えていて、「プチ アンジュ」(Petit Ange、小さな天使)という店名も、満子さんの目指す「生活に寄り添うちょっとした幸せ」のイメージにぴったりなので、気に入っているそうです。

ケーキを身近なものとしてほっと一息のおともにしてもらえるような、優しい味を目指しています。

そして、植物性の合成クリームはどうしてもくどくて変な味がするので、純生クリームしか使わないこともこだわりです。

 

お店は、中町交差点から海岸に向かって進むと道路沿い左手にあります。

店内には、様々なデザインやメッセージの入ったアイシングクッキー(*)が沢山並べられています。

*アイシング(粉糖と卵白を混ぜて作ったクリーム)を使って、クッキーの上にデザインをしたもの。

また、お客様から特注品へのご要望が多く、似顔絵ケーキを紹介したら人気商品になりました。

 

 

館山には、お世話になった親せきや懐かしい方もたくさんいますが、自分から訪ねていくのは苦手なので、お店を構えれば来てもらえる、という狙いもあります。

「これしかないの?」とガッカリさせてしまうのが嫌で、良いものをたくさん並べて、欲しい時に欲しいものを選んでもらいたいので、どうしても品数が増えてしまいます。また、同じものを買ってくれると、気に入ってもらえたんだなぁと嬉しくなります。

 

今は実家に暮らしているので、家事などは親にも頼り、家にはほとんど寝に帰るだけ、TVも見ない、という生活で突っ走ってきましたが、そろそろ体力も落ちてくるのでどこかで路線変更をしないといけない、次の段階へと考えています。

 

これまであまり得意でなかった人付き合いや周囲との関わりも、少しずつ増やしているところだそうです。

 

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◆インタビューを終えて

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見かけは可愛い女性ですが、根っからの職人さんで、寝食を忘れてのめり込んだ時期があるからこそ良いものが生み出せるのだとつくづく思いました。

人付き合いが苦手と言いますが、他人への思いやりがにじみ出る人柄も人気の秘密でしょう。

以前はこのような取材も断っていたそうですが、ちょうどよいタイミングでの出逢いに感謝していますラブ

 

コロナ禍で閉鎖していたイートインスペースには、本好きという満子さんのこだわりの本や漫画がずらっと並べられているので、再開したらのんびり寛ぎに行きたいですね。

また、10月の店内は、「ハロウィン」の装飾やお菓子も色々賑やかで楽しいですので、ぜひこの機会に足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

プチアンジュHP

 

館山市館山1212-1

TEL 0470-49-5791

定休日:月・火曜日(祝日の場合は翌水曜日)

 

(インタビュー日 令和3年10月4日)

 

【追伸】

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今回は、ドライボーンズ代表の武内陽明(きよあき)さん、今年56歳。

ドライボーンズは、知る人ぞ知るメンズブランドで、代官山、大阪、名古屋に直営店を構えています。
武内さんは今年館山に戻り、自宅敷地内のサテライトオフィスで企画・デザインを行っています。

武内さん1
(リフォームしたご自宅玄関先で)

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◆初めに、“ドライボーンズ”を知らない方へ
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(すみませんあせる 私も知りませんでした)

通販サイトの紹介では、
「ヴィンテージを基に、オリジナルアイテムを製作しているメンズブランドです。
ほぼ全てのアイテムを国内の工場で生産し、丁寧な物作りを心懸けています。
年代、ジャンルが幅広いので、様々なコーディネートを楽しんで頂けます。」
と書かれています。

武内さん曰く、
ロックンロールなファッションも多く、“古い2つ以上の文化を融合したモノづくり”を心掛けているそうです。
古着そのままでなく、何かしらエッセンスを加える。

例えばこの日着ていたシャツは、60年代の英国のリバティの花柄と、20年代の米国ワークウェアの襟の形の組み合わせ。
場所も年代も違うものを組み合わせているので、古着屋では見つからず唯一無二のものなので、感性がはまる人は長くファンになってくれるそうです。

有名人の愛用者も多く、例えば・・・
マックショウのコージーマック、ストレイキャッツのギターボーカルのブライアン・セッツァー

また、お笑いのキム兄やケンコバさんが成功例になり、大阪の吉本興業では「ドライボーンズを着ると東京に進出できる」というジンクスが出来上がっているとか!

武内さん2

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◆高校卒業後、上京
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武内さんがファッションに興味を持ったのは、高校の時に「L&I」というジーパン屋さんでアルバイトをした時。
売ることも面白かったけれど、モノをちゃんと見てみたい、という思いが強まりました。
勉強はいつでもできると思っていたし、早く現場で場数が踏みたい、海外へも行きたい、という夢を抱き、安房高校を卒業するとすぐ上京して働き始めました。

東京での生活は、四畳半一間の相部屋、風呂なし共同トイレ、というスタート。
服の勉強をしたくて就職した丸井では、高金利のキャッシングカードの回収作業で事件が起きたことから辞め、骨董屋で働いたりファミレスアルバイトをしたり全財産をつぎ込みアメリカツアーに参加するなど、様々な経験をしました。
その後、23歳で自分のお店を持つに至りました。

何でもやってみよう、という生き方は、家が裕福ではなくて何でも自分でやらなくてはいけなかったことから身についたのだろう、と。
自分でやるのは苦労もあるけれど、コツを掴めたり思いもよらないところをクリアしていくことを面白いと感じるそうです。

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◆服飾学校で学んだ“数値”の重要性
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当初、お店では仕入れた古着を売っていましたが、自分で洋服を作りたくなり、服飾専門学校へ通い始めました。そこで「目からうろこ」だったのは、「何もかも数値で理解できないとダメ」ということが分かったこと。

それまでにも何となく感じていたし、洋服を作るのにはもちろん感性も大事だけれど、型紙を作る、ボタンの位置決め、着丈の長さ、さらに量産するにも、全て数値の裏付けがないといけないことを身をもって知ることになったそうです。
それは経営や店舗デザインにも通じます。

最近ではコロナのことでも、統計をきちんと見て一歩引いて数値を抑えて考えることが大事だと思っていますが、それは「長いものに巻かれろ」という考えとは相対する生き方です。

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◆スタッフとの関係
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「経営をしていて大変なことは何ですか?」と聞くと、「大変なことしかない」と即答でした。
洋服を作っていたくても、多い時には店舗を4店構えていて、家賃も大変だしスタッフに裏切られたこともあるそうです。

ただ、スタッフへの対応の仕方は、以前と変わってきました。
現在、3店舗で12人のスタッフを抱えていますが、常時全てのお店に立つことはできないのでスタッフを信用するしかありません。
若いころは、自分の考えに従わせようとしていましたが、どうしても無理が出てくるし、特に遠隔ではスタッフが指示待ちではうまくいきません。
最近では、各人の特性に合わせてハンドリングしていくことが面白い、と気づくようになりました。
スタッフが自由に動いた結果が良くなるようにアドバイスをしようと心がけていると、本人も頑張るようになってきたそうです。

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◆40年後に館山へUターン
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中学・高校生の頃は、館山に居ると「出る杭は打たれる」「長いものには巻かれろ」という風潮に閉鎖性を感じていましたが、それでもいずれ館山に戻ろう、とは思っていたそうです。
長男だから家を引き継ぐ、という意識があったので、東京でも賃貸住宅に暮らしていました。
館山の気候風土が好きだし、祭りの時には毎年帰ってきていましたので神明町での人脈もあります。

父親が亡くなり、母親が入院して家が空いていたところに、台風15号が直撃。
奥様も体調を崩したことから館山に戻ることを決め、自力で家の修復を始めました。
武内さんの社長としての仕事は企画やデザインなので、館山でのテレワークも可能。庭で畑仕事も始めています。

館山に対して、不平や不満もあるけれど、「もっと仕掛けられることがいっぱいある」と感じています。
古いもの好きなので、“昭和レトロ”でまちを活性化できるのに、このままだと魅力が劣化してしまう、という危機感も持たれています。

武内さん3
(庭の畑の前で)


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◆インタビューを終えて
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私と同じ年齢なので、以前、同級生の小宮庸宏さんから「こんなすごい人がいるよ」と紹介して頂いて、代官山のお洒落なお店にもお伺いしたことがあります。
武内さん4

「何でも自分でやってみよう」とか「他にないものを作りたい」という生き方は私も大好きで、そういう人が増えると多様性のある町になっていいなぁと思っています。

以前は、雑誌の連載を読んだ人が顧客になる流れもありましたが、今、コロナ禍で集客に苦労していて、今までのセオリーではダメだと感じています。Withコロナ下でどうすればお店に来てもらえるか、模索中だそうです。
せっかく館山に戻られたので、展示販売会などで安房地域の方たちにもドライボーンズの洋服を知る(見る、買う)機会を是非作って下さい、とお願いしておきました。


▼ドライボーンズHP
https://www.dry-bones.com/


(インタビュー日 令和3年9月16日)

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今回は、フーテンコーヒー店主の海老原直人さん。

西岬の伊戸で、あわび漁師をしながら、
移動式珈琲屋台を昨年12月に開業されました!

海老原直人さん

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珈琲の勉強や仕事をして、
日本スペシャルティコーヒー協会の
コーヒーマイスターの資格も取得されたそうで、
本格派の美味しい珈琲を頂きました。

ただ、コーヒーの専門店を目指しているというよりも、
コーヒーを、色々な人が集まる、空間を作り出す
一つのツールとして考えていて、
そこから文化を生み出したい、という考えだそうです。

まだ20代というのに、とてもしっかりした考えを持たれています

高校を卒業すると皆が館山を離れてしまい、
後継者不足など20年以上前から言われてきているけれど、

「弱みを強みに変えていきたい

という気持ちを持つようになったそうですが、
そのきっかけは、
石垣島でコーヒー栽培に1年関わったこと。
西岬とそっくりな土地柄、人の感じや産業もよく似ていて、
でも違うのは、ポジティブなところだそう。

勝手に人が入ってしまうような場所を無法状態にせず、
有料駐車場にして屋台を出したり。
その背景にある、館山との決定的な違いは、
みな、『石垣島が大好き』で、
土地を守ろうという意識の強さを感じたそうです。
そして、それは移住者も同じ。

とにかく、過疎地や田舎のマイナス面をプラスにしていこう
という前向きな姿に触発されて、
館山を若い力で盛り上げようと考えているそうです。

まちを盛り上げるには、何よりも強い郷土愛
というのは、私もまったく同感です。


屋台は、主に伊戸(だいぼ)や、原岡海岸に。
漁師さんとの兼業なので、時間や場所は不定期です。

(情報はインスタで!)
<https://www.instagram.com/futen_coffee_tctp/?hl=ja>

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今回は、株式会社ヤマキ花卉園、社長の山田桂さん、今年31歳。
西岬の花農家を継ぐ3代目ながら、法人化して新しいことに果敢にチャレンジしています。

山田桂さん

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◆就農、そして法人化
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桂さんは、西岬でひまわりやストックを栽培する農家に生まれました。
お父様が楽しそうに働いている姿をみてきたので、跡を継ぐことを早くから決めていましたが、大学を卒業するまではサッカーをやったり教員免許を取ったり、自由に生活してきました。

大学卒業後、大田花き市場での半年間の研修後に23歳で就農し、今年で8年目になります。
就農時はJA経由で出荷していましたが、翌年グループを抜けて、個人での出荷になりました。

さらにその翌年に法人化しました。当時、千葉県が法人農家を増やそうとしていたので、そのサポートも得られたそうです。
館山の花農家で法人化しているのは、ヤマキさんの他は、ストックの育種と採種生産専門のクロカワストックさんだけ。
(南房総市・丸山などには、区画整理で土地がまとまっていることから規模の大きな企業農家がいくつかある)

農家は、まわりと違うことをやるのが苦手で積極的なPRを恥ずかしがる方が多いのですが、法人化で意識が変わり、ホームページや企業理念・ロゴを作るなど積極的にアピールするようになったそうです。
特に求人には力を入れていてヤマキ花卉園に合う人材が集まるように工夫されています。

桂さんの就農時はパートさん3人でしたが、将来を見据えて家族の負担を減らそうと、今では通年のパートさんが7人、臨時パートさんは約10人に。
休みも自由に取れて無理なく働ける環境をつくることや、コミュニケーションを重視した採用をすることで仕事中も笑顔が溢れる明るい職場を目指しています。

山田桂さん パートさんたち
パートさんたち

山田桂さん ロゴ
山田桂さん理念
企業ロゴと理念

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◆こだわっていること
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お父様の時から品質にはこだわっていて、無理して大量生産するよりきちんと管理できる量を維持しています。特に、ロスが出ないように栽培を工夫しているそうです。

現在、ハウス約3,000坪(50棟)、路地約1,000坪で、ひまわりの出荷本数は年間約70万本。大田花き市場と葛西市場で個人出荷量としてはトップだそうです。(ストックは約28万本)

大手と同じことはできないので、作りづらい品種を栽培したり、人がやらないことを行ってブランド価値を高めることを目指しています。
例えば、夏に朝摘みひまわり3,000本をその日中に店頭に届く取組みを青山フラワーマーケットさんと行っています。(普通は2-3日後に店頭に並ぶ)

山田桂さん 出荷花
出荷前の花

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◆これからの挑戦
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今、お父様が栽培管理、お母様が出荷作業を主に行っていますが、2025年までに両親の仕事を半分以下にして、野菜の栽培もしたいと考えています。

将来的にはまとまった土地を探して、自らが生産するのではなく新規就農者や移住者など農業をやりたい方が働きやすい環境を整えると共に売り先を確保することで、規模拡大をして耕作放棄地を減らし館山の農業を盛り上げていきたいとのこと。
 
また、元々保育士でもあった奥様は、野菜果物を使ったアレルギー対応のおやつを製造販売することで、地域の生産者や子育て世帯の為になると考え、現在はその準備を行なっているそうです。

サッカーチームのコスモTFCのスポンサーでもあるので、奥様の野菜ソムリエや食育インストラクター等の資格を生かし子ども達に野菜の良さを伝えたり、サッカー大会に来る子ども達に農業体験を出来るようにしてはどうかなど、瞳を輝かせて語る姿が印象的でした。

山田桂さん 家族写真
桂さんご家族の写真

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◆インタビューを終えて
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ヤマキさんは全て市場出荷なので直接、個人でお花を購入することはできません。
どうしたら応援できるか?と聞いたところ、「普段から花が身近にある文化が根付いて欲しい。多くの方に花を買ってもらえることが最終的には生産者にとっての一番の応援になります」と言われました。
本当にその通りですね!

また、なぜ彼は様々な挑戦をするのか?ということについて、「新しいことを考えるのが楽しい」という元々の性格もあるかもしれませんが、「今のままではダメ」という強い危機感を持っていて、それは大田市場など様々な場所で見聞を広めたからこそのものだと感じました。


これからの構想も楽しみです!


▼<参考>青山フラワーマーケットさんHPのヤマキ花卉園の紹介コラム
https://www.aoyamaflowermarket.com/category/COLUMN_REPORT/COLUMN_REPORT_024.html

▼ヤマキ花卉園HP
https://www.yamakikakien.com/

(インタビュー日 令和3年8月31日)

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今回は、株式会社ホンダカーズ館山、社長の金子裕美さん。

金子裕美さん

初めてお逢いしたのは、知人から「若い女性社長がいるよ」と紹介して頂いて。
ワクワクドキドキしながらお伺いすると、最初から話が弾みまくって、お逢いする度に意気投合しています。

お父様が急逝されたことでお店を継いだのが27歳の時。その後、今のバイパス沿いの大きなお店に移転して、今では社員20人を抱える会社の社長になって12年目ということですが、色々なご苦労があったことは想像に難くありません。

それまでは、上京して栄養士の大学に行き、食品商社に就職しましたが、当時、中国産輸入野菜を扱っていたため叩かれ会社の状態も良くなかったことから、「もっと喜ばれる仕事をしたい」と外食レストランで商品開発に携わるようになった矢先のことだったそうです。

苦労したことは?と聞くと、
「出る杭は打たれる」「変化に対して、良く思えない人の方が多い」ことを実感したそうです。

象徴的な出来事は、会社が70周年の時に(移転2年目)、8月の館山湾花火大会で超特大スターマインに協賛した時のこと。

チラシの上位に大きく社名が出ているのをみた親せきから「何であんな派手なことをするのか?」、お客様からは「従業員がかわいそう(そのお金を社員に還元しろ)」「儲かっているなら値引きしろ」などの苦情が相次いだのです。
お客様や社員に感謝の気持ちを伝えたい、そして社員が誇らしく思える会社にしたい、という思いだったのですが、打上げの際の1分メッセージを聞いた方にはその思いが伝わったようで、救われたそうです。

『地域のみなさまと、毎日頑張って働いてくれる社員に支えられて創業70年。70年分のありがとうの気持ちをお届けします』

また、当時の定休日が日・祝だったのを平日に変えたことで、(休日数は増やしたが)数人の社員さんが辞めてしまいました。
(それ以外にも細かな改革を進めていたので、変化にストレスを感じていたのだろう、と。)

会社のHPのスタッフ紹介をみると、裕美さんのところには「栄養士、フードコーディネーター」という異色の資格が掲載されていますが、夏休みには銀座通りで独自に交通調査をするなど子どもの頃から車好きだったそうです。

20人の社員雇用や、常に40台ほどの台車や試乗車等を保有したり、3か月先を見越して月1億円もの仕入れをするなど、多額のお金を動かす経営者ですが、そんな素振りを感じさせない快活な様子ながら、言葉の端々から確固たる経営センスを感じました。

今後は、営業や整備士さんなどが定年を迎えても希望する限りは働き続けられるように、何らかの形で(異なる業態であっても)終身雇用の道を作っていきたい、と語ります。

こんな女性がいることは、館山の誇りでもありますし、これからも頑張って欲しいですね!

 

▼お店前で
金子裕美さん1

▼私の車(フィット)の前で一緒に
金子裕美さん2

(インタビュー日 令和3年8月26日)

 

 

むろあつみのブログ

 

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*日曜街頭演説を続けています。
チャンネル登録もよろしくお願いします

 

 

 

安房地域で活躍している、

安房地域出身の皆さんのことをご紹介していきます。

 

私の住む館山市を含む安房地域には、

元気に活躍している方がたくさんいらっしゃいます。

 

そういう方たちの日常的な姿を知ると、

「私も頑張ろう」と思えることも多いので

皆さんにも知って頂きたいですし、

安房地域を盛り上げるためには、

「みんなで頑張る人を応援する」という風潮を

作っていきたいなぁと思っています。

 

移住者の方は、意思を持って館山・安房を選んできていて

何かやりたいことがある人も多いですし、

自己PRの得意な方も多いような気がしています。

 

一方、この地域で生まれ育った方たちは、

自分のことを全面に押し出すことをあまり良しとしない空気があって、

(「風がわりい=悪い」という言い方をよくされます)

積極的に自己PRをすることを遠慮しているようにも感じます。

 

なので、活躍している方のなかでも

先ずは安房地域で生まれ育った方を

取り上げようと考えています。

 

 

その他の全般的なブログは以下にあります。

むろあつみのブログ

 

私が館山で色々な活動をしている経緯は、以下をご覧ください。

(自己紹介代わりに)

 

私が館山市議会議員になったワケ

 

私が市長選挙に挑戦したワケ