理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)/高橋 昌一郎


読んだ本:『理性の限界』 

著者:高橋 昌一郎

出版社:講談社

読んだ日:2010/7/4~7/5

ページ数:274頁


まとめ:

『理性の限界』というタイトルのこの本を読んで、私は自分の「理性の限界」を感じた。

いかんせん、論理学の論理展開についていけない。

第一章、第二章は何とか、読めたが、

第三章!

何ですか、これ。

文字を目で追うたびに、私の脳がギーギーと音をたてて悲鳴をあげる。

このような高度な論理を認識できる人々が世界にはたくさんいるのだとしたら、

私の論理思考の意義がなくなってしまうじゃない。

向上せねば。

私は世界を知らなすぎるし、論理の深さも浅すぎる。


多分、私の一番の長短所は自分への「不満」を常に持っていることだと思う。




本題...


人類が到達した「選択」「科学」「知識」の限界を仮想のディベート大会で、

知識に差の開きがある人たちが、脱線しながらも楽しそうに論じ合う、という内容。


会社員からフランス国粋主義者、科学主義者、論理学者、 大学生、スポーツ選手など、

実に多様な人々が登場してくるのだが、登場するたびに、

話を脱線させてしまうロマン主義者やカント主義者の存在が自分と重なって感じられ苦笑した。

熱のこもった感情論を唱える彼らに、司会者(登場人物)は注意を促して話を戻すのだが、

何だかそれが、著者の精神活動を表しているように感じられて、勝手に親近感を感じた。




第一章の「選択の限界」では、投票のパラドックスについて述べられている。

結論から言うと、「完璧に公平な投票方式は存在しない」ということ。

国際政治学者によると...

“いかなる民主的な投票方式においても、必ず戦略的操作が可能...

もし、戦略的操作ができないような投票方式があるとすれば、

そこには必ず、すべての決定権が一人の投票者に委ねられるという意味での独裁者が存在する”


つまり、完全民主主義は成立しないということ。


不公平な投票方式によって導かれた結果に、我々はただ対処するだけなのかもしれない。

「決める人」と「決められた結果に対処する人」というこの構造が、今の世界では成り立っている。

一方的すぎると思うと同時に、それが運命だと諦めるしかないのか。

けれど、結果は結果。

そこからの選択だけが、我々に残された自由なのかもしれない。





この本では、様々な優れた理論が述べられているが、やはり「足りない」と感じる。

どんな理論でも、その先には“人間の不完全性”が組み込まれる。

だから、事象として論理が表れても、そこに人間が在る限り、論理は主役にはなれない。

科学も宗教も政治も、人間を前にしては、主役になれないのだ。












ありがとうございました。

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別に好きでも、得意でもない「けん玉」。

この歳になると、興味もわかないし、手に取ることもほとんどない。

しかし、そんな「けん玉」には、結構しょっぱい思い出がある。



小学校低学年の頃、同年代のいとこ二人がうちへホームステイにきた。

もてなし精神旺盛な母は、私含め、いとこ二人にお小遣いとして、それぞれ一万円を渡し、

「好きなものを買っていい」

「自由に使っていい」


と、子どもの自由性を尊重し、それぞれの使い道に期待をした母は嬉しそうに、何度もそう言った。

母のその言葉に私は、一万円札という紙切れに無限大の自由を感じたのを覚えている。


早速、我々三人は意気揚々と、近くのショッピングセンターに繰り出した。

もちろん、目的地はおもちゃコーナー。


一時間近く、物色した結果、

いとこAは、大量のお菓子を、

いとこBは、一万円近くするゲーム機を、

そして私は、少し値段の張る木製の「けん玉」を買った。


なぜに「けん玉」?

と、思われるかもしれない。

結論から言うと、一目惚れだった。

赤いネットに包まれた木製のそれは、売れないことを想定されてか、

棚の一番下に無造作に置かれていた。

無骨で堅気なそのルックスに、一生大事にしていけそうな信頼感を感じてしまったが最後、

何の変哲もない「けん玉」に異常な愛着心が芽生えてしまったのだ。


無事、欲しいものを購入できた我々は、帰宅して間もなく、

母にそれぞれ何を買ったかを報告をすることになった。


結果、

いとこAは、大いに呆れられ、

いとこBは、大いに驚かれ、

そして私は、大いに叱られて問責されるハメとなった。

「なぜ、こんなものを買ったのか?」

「こんなものより、もっと良いものがあるでしょうが。」

「こんなものにお金を使うなんて、もったいない。」


よっぽど、私のけん玉チョイスがお気に召さなかったのか、

怒濤のけん玉批判と、それを買った娘批判が30分近く繰り広げられた。

いつの間にか、いとこたちも母側に付き、私は一人で「けん玉」擁護をしなければいけなくなった。


意固地な私は、自分のチョイスを否定されて悔しいと思うと同時に、

脳内にはキャパシティを超えた疑問符が溢れかえっていた。


“なぜに、「けん玉」がダメなのか?”

“なぜに、ここまで批判されるのか?”

“なぜに、母は憤慨しているのか?”



そんな理解不能な状態に、脳が我慢できなくなったのか、

私の思考回路はある結論を強引に作り出してしまった。


“「けん玉」は買うに値しないもの。”


つまり、皆がそう言うのだから、「けん玉」は無価値なのだと、

私の脳は、そう心に指令を出した。

つまり、自分の本心を欺いたのだ。


その結論が出た瞬間から、興が冷め、あれほど熱烈に惚れ込んでいた「けん玉」に、

少しも魅力を感じなくなってしまった。

結局、「けん玉」は返品することとなり、

その後、まるで義務であるかのように、“自由”な一万円で、欲しくもない「ゲーム機」を買った。





この「けん玉」のしょっぱい思い出が、ここ最近、何度も頭をかすめる。

私にとっての「けん玉」とは、“主観”の象徴なのかもしれない。

そして、素直に本心を貫き通せず、他者の価値観を受け入れてしまった自分への戒めでもある。


今までの人生では、「けん玉」を追求していくも、周りから批判を受けて、

結局は自分を欺き、欲しくもない「ゲーム機」を選択してきたような気がする。

「ゲーム機」を手に入れれば、批判を受けることもないし、

何より、大多数に属せることの安心感を得ることが出来る。

でも、それは「けん玉」を得たときの喜びと比べれば、本当に小さくて惨めな充実感であり、

真の喜びには到達できないのだと、心の奥底では分かっていた。


いつまでたっても、「ゲーム機」の与えてくれる惨めな安心感を捨てきれず、

「けん玉」を追求するのを躊躇っていた私に、

このしょっぱい思い出は、ムチをいれてくれたのかもしれない。


就職の進路、というか、人生の進路について考えなければいけない今、

今度こそは、批判されても、孤立しても、

自分の主観が価値を見出した方向に素直に突き進んでいきたい。


きっと、「けん玉」を求めなければ、人生は真の意味で自分のものにはならないのだと思う。

「けん玉」を追い求めていったその先に、新たな世界があると信じて、

今は、自分の主観を大切に育んでいきたい。















ありがとうございました。




This is a short film of my father's life.
He passed away in 2008.
He was so gentle and honest man.

I hope you look after your parents well.
Thanks for watching.