なぜ、働くのか―生死を見据えた『仕事の思想』 (PHP文庫)/田坂 広志


読んだ本:『なぜ、働くのか』 

著者:田坂 広志

出版社:PHP研究所

読んだ日:2011/1/19~1/20

ページ数:159頁


まとめ:

「思想」という言葉。

何だか大それた様相で、

会話の中で使おうとも、気恥ずかしくて

「考え」と置き換えてみたりするけれど、

やはり、思想は「思想」としか表現のしようがない。

けれど、この本の著者である田坂広志氏は「思想」をこのような言葉でうまく言い得ている。


“ 現実に流されないための錨(いかり) ”


現実とは我々を流すものなのだと、

その荒波に飲み込まれないために「思想」こそが必要なのだと、

そう言い表した、この一行の「思想」が、

現実の荒波に溺れかけていた自分に、手を差し出してくれたような気がした。




本題...


文字数もページ数も多くない。

なのに、あっという間に読むことができない。

言葉少なでありがながら、

一行一行に込められた想いは、

相当に大きい。


著者はときに熱く、ときに淡々と読み手に語りかけてくる。

「覚悟」はあるのか、

「思想」はあるのか、

きみは、私の講義を受けるに値する人間なのかと。


これは、本ではなくて「講義」なのだ。

しかも一対一の対話型。


著者は、仕事の思想を身につけるための原点である

「死生観」「世界観」「歴史観」

以上三つを、まるで、別人が書いているかのように、

まったく違う毛色で論じている。


ストイックなまでのメメント・モリ精神を見せたかと思えば、

世界の広がりから「恵まれた人間」としての使命感を読み手に大きく放ち、

果ては、宇宙の壮大な歴史から「人間の意味」を問うてくる。


著者は、その半端のない想像力で、

今や「死」から切り離され、「世界」を想う想像力をも失い、

「歴史」を感じるには過去や未来に囚われすぎている我々「恵まれた人間」の脳裏に

「死」の持つ有限性で、尊い「生」の輝きを、

「世界」が抱える苦しみで、享受している「恩恵」を、

「宇宙」の壮大な歴史で、今ここに居る「意味」を、

見事に体感させてくれる。


このような大いなる逆説に抗い、覚悟を決めることこそが、

「生き切る」ということなのかもしれない。




「生死」を見つめ、

「世界」を見つめ、

「歴史」を見つめ、

今ここに存在するということの“重み”が、わかり始めたとき、

仕事の彼方は、やっと見えてくる。




著者は最後まで我々に問い続ける。


なぜ、我々は働くのか。

何のために働いているのか。

その仕事の彼方に、何を見つめているのか。




答えられるはずがない。

これは「問い続けるための答えのない問い」なのだ。

問い続けることこそに、意味があるのだと著者は言う。

問うことこそが“答え”なのだと、私は思う。










ありがとうございました。



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今更ながら、2009年の上海留学で感じたことを記します。
忘れないために。


<精神が鍛えられる場所>
中国のトイレ文化は、環境には良く、精神的には厳しかった。ほとんどの中国のトイレには紙がない。そして、臭くて汚い。一本の水路で人々が用を足すトイレもあり、使用後は軽く神経衰弱した。

<とても公平な接客>
日本では考えられないくらい上海の店員は態度が悪かった。
どの職業の従業員も自分の感情を抑制しようとしていない。
日本の接客が馬鹿丁寧すぎるのかもしれないと思い、日本社会に甘やかされていたことに気付いた。

<信号とは飾り>
中国では、信号の存在意味が皆無に近かった。赤信号でも、車が走っていても、中国人は渡ってしまう。人も図図しいが、車も図図しい。青信号でも車は止まってくれない。体すれすれまで接近し、退けと言わんばかりの威圧感で攻めてくる。

<譲ったら負け>
中国人は並ぶことができない。電車のホームでは、並ぶことを示唆されているのにも関わらず、人々は我先にと人だかりの前に入ろうとする。買い物の会計においても横入りは日常茶飯事で、苛立ちとともに順番を守れない中国人の気質に驚いた。

<最高学府の在り方>
日本人が怠惰なだけかもしれないが、中国人の勤勉さには驚いた。中国人の知り合い曰く、周囲が勤勉で常に学問に勤しんでいる為、自分だけ怠けるのは心地悪いそうだ。日本の大学とは真逆の環境で、羨ましいと思った。学問は周囲の環境が重要だと感じ、今の大学を辞めようと思った。

<文化というハリボテ>
上海は高層ビルが立ち並び、技術力の高い設備、機械によって構成されていた。しかし、一歩路地に入ると古い民家が立ち並び、生臭い市場が展開されていたりと、「本来」の中国の姿が存在していた。そのギャップに驚き、急成長を遂げている中国の異様な都市空間に感動した。

<チャイニーズ・タイペイ>
「台湾」への認識の違いに驚いた。中国人にとって台湾は中国の一部であり「台湾省」だった。日本人にとってもそうらしいが、台湾人の血を持つ私にとって台湾と中国は別のものという概念があったため、中国人に台湾の定義を糾されてショックを受けた。

<中国なんて>
日本のメディアによる中国人についてのネガティブな報道や、バラエティ番組での中国人への差別的な扱いなどを見て、正直、私の中には中国人に対する偏見や優越感が存在していた。しかし、反対に中国人に対する親近感も少し持っていた。私には台湾人の母親がいるため、中華文化に触れることが多かったからである。台湾人と中国人は気質が違うが、大体同じようなものだと思っていた。しかし、日本メディアと中華文化によって形成された中国人に対する私の印象は、中国留学によって日々変化していった。

<惚れてまうやろ>
中国人の第一印象は最悪だった。空港の服務員、タクシーの運転手、大学寮の管理者など出会う中国人たちは、無愛想で笑顔など見せない。どこか投げやりで冷たく感じられ、それらは日本メディアによって得られた印象よりも悪く、改めて中国人に対する嫌な印象を持った。しかし、ある出来事で中国人に対する印象が変化した。
大学の寮生活の第一日目に私の部屋でトラブルが起こり、電灯やテレビが使えなくなってしまった。真暗な部屋で過ごしていると、向かい側にいる中国人留学生が心配して来てくれ、事情を説明すると寮の管理人に電話して電気を直すように言ってくれた。しかし、時間が遅かったため、修理工が来れないとわかると別の中国人留学生が他のフロアの空き部屋を使うように勧めてくれ、寮の管理者の下まで行き、電気が使える空き部屋を取ってくれた。これほどまで親身になって対応してくれたことに驚き感謝したとともに、中国人の熱情を知った。

<ツンデレというやつ>
中国人の中には第一印象は悪くとも、話しているうちに笑顔を見せ、和やかになる人がいた。ほとんどの中国人は、初対面の人と面と向かうとき敵意を表す。それは一瞬だったり、ずっとだったり、個人差はあるがやがてすごいスピードで親しいような雰囲気になる。中国人は親しい人に対しては、とても優しいようだ。
厳しい中国社会で生きていくには他人に敵意を持ち、常に警戒していなければいけない。私は中国に一ヶ月いて、尋常じゃない警戒心が身についた。それほどまでに中国は厳しく危険で、そして情のある国だった。親しくなってはじめて分かる中国人の情け深さは日本的な私にとって新鮮だった。

<建前要らず>
中国人は褒め言葉も悪口も相手の面前で言う。潔いのは良いが、日本という建前陰口国家で育った私にはとてもきつく感じられた。
「中国人は正直だ。見たままの感想をそのまま口に出す [省略] 知り合いの中国人にどう思うか聞いてみてもまったく悪気はないようで、「へーえ」などと感心している。髪を切れば、「前のほうが良かったね。」新しい服を着てれば。「似合わない!」。」(『踊る中国人』(2002)より)
中国人はやさしい。しかし、その「やさしさ」は日本とは違う。中国は利他的な、心からのやさしさがある。相手のためであれば相手が傷つくであろう本音を口にする。
建前の優しさは中国人には見られなかった。また、正直で遠慮のない発言は中国人のみならず欧米人にも見られ、日本人の気質は特異なのだと感じた。

<求めない>
私は知らず知らずのうちに日本的な上辺のやさしさを求めていたのかもしれない。店員や初対面の人が微笑むのは当たり前で、こちらが優しくすればあちらも優しくするのだと思っていた。このような甘えと見返りを求める精神は日本人に潜在的にあるのかもしれない。それは、日本が「世間」に愛想を現すことによって上辺の信頼を築いてきた国だからなのだと思う。
中国人の本当のやさしさに触れ、人間の本当の心を感じたとともに、建前の利己的な日本の「やさしさ」を恥じた。




以上です。
ありがとうございました。