風の歌を聴け (講談社文庫)/村上 春樹

読んだ本:『風の歌を聴け』
著者:村上春樹
出版社:講談社文庫
読んだ日:2010/5/4~5/11
ページ数:155頁
まとめ:
授業の課題で読んだ本。
そして、村上春樹の処女作。
時系列がバラバラで、断片によって語られている。
しかも、主人公がクールさを装いながら語るので、ますます混乱させられる。
6回くらい読んで、やっと自分なりの解釈が出来上がった感じ。
一度目に読んだときは、所々、組合わさっているけれど、
まだまだ未完成のパズルを眺めているような気分。
二度目に読んだときに、やっと枠組みが姿を現しはじめる。
でも、何度読んでも、パズルは完成しない。
最初から分かっていたけれど、この小説には、ある肝心な部分のピースがない。
その欠けたピースの解釈は様々であるが、
平野芳信氏という方の解釈が、今の段階では最も有力らしい。
その解釈は、深読みし過ぎだと私は感じるのだが、
読み方は人それぞれなので、それは置いておくとして、
村上春樹は、よく考察される作家の一人だと思うのだけれど、
そこまで“探れる”ほど、村上自体に奥行きがあるのか、私には疑問だ。
これは、私がまだまだ村上春樹を知らないという前提で言っているので、
別に彼を批判しているわけではない。
ただ、生きている作家の作品が、これほどまでに考察されることが、
私は不思議でならない。
村上春樹を通して、人間の深みを探究していっているのは分かるが、
なぜ、村上春樹なのか?
現象として現れている以上、理由はあるのだろう。
私は、村上春樹ではなく、その理由を探究していきたい。
本題...
まず、あらすじ(私解釈)から。
(注:ラストまで書いていますので、興味のある方だけ、反転させてお読みください。)
———————————————————————————————————————————
一九七〇年の夏、海辺に近い故郷に帰省していた大学生の"僕"は、
友人の鼠とジェイズ・バーで厭世的な会話をしながらビールを飲むという日々を送っていた。
ある日、僕はジェイズ・バーの洗面所で小指のない女性と出会う。
真面目で"可哀想な"彼女と接するうちに、僕は昔出会った女性たちを思い出していく。
僕が三番目に寝た女性は雑木林の中で首を吊って死んだ。
小指のない女性は最初、頑なに心を閉ざしていたが、次第に打ち解けていく。
そんな中、彼女は旅行に行くと嘘をつき、堕胎をする。
彼女のお腹にいた子の父親は鼠らしい。
久しぶりに会った僕と彼女は"何も"せずに抱き合いながら一晩を過ごした。
彼女と出会ってから18日後、僕はジェイズ・バーと鼠と彼女を残して東京に戻っていった。
それから8年後、僕は結婚し、鼠は小説を書いている。
小指のない女性と僕は二度と会えなかった。
彼女が今、どこで何をしているか、僕は知らない。
———————————————————————————————————————————
この小説は、生と死の狭間をさまよう主人公"僕"が語る長い長いジョークだ。
僕や鼠、ラジオのアナウンサーに代表される、この小説の男性像は、
「享楽的、不真面目、ロマンチスト」。
対照的に女性像は、
「苦悩、真面目、リアリスト」。
小説の中で、海の真ん中でビールを飲む男性と苦しみ泳ぎ続ける女性の物語があるが、
海とは「心」を表しているのだと思う。
男性は問題を解決するために何もせず、ただ享楽に耽るけれど、
女性は悩み苦しみ、ときには自殺という手段もとる。
このような男女の相反する精神的志向性と「生死」を結びつけて、
男性は「死をもたらし、生を望む生き物」として、
女性は「生をもたらし、死を望む生き物」として、描かれていると感じた。
村上作品では、この構造が基軸となっているのではないだろうか。
命を越えた霊性は風のように流れてゆき、
「男女」や「生死」といった、二分されたものも、やがては一つとなる。
著者のそんな想いを私は感じとった。
ありがとうございました。




読んだ本:『風の歌を聴け』
著者:村上春樹
出版社:講談社文庫
読んだ日:2010/5/4~5/11
ページ数:155頁
まとめ:
授業の課題で読んだ本。
そして、村上春樹の処女作。
時系列がバラバラで、断片によって語られている。
しかも、主人公がクールさを装いながら語るので、ますます混乱させられる。
6回くらい読んで、やっと自分なりの解釈が出来上がった感じ。
一度目に読んだときは、所々、組合わさっているけれど、
まだまだ未完成のパズルを眺めているような気分。
二度目に読んだときに、やっと枠組みが姿を現しはじめる。
でも、何度読んでも、パズルは完成しない。
最初から分かっていたけれど、この小説には、ある肝心な部分のピースがない。
その欠けたピースの解釈は様々であるが、
平野芳信氏という方の解釈が、今の段階では最も有力らしい。
その解釈は、深読みし過ぎだと私は感じるのだが、
読み方は人それぞれなので、それは置いておくとして、
村上春樹は、よく考察される作家の一人だと思うのだけれど、
そこまで“探れる”ほど、村上自体に奥行きがあるのか、私には疑問だ。
これは、私がまだまだ村上春樹を知らないという前提で言っているので、
別に彼を批判しているわけではない。
ただ、生きている作家の作品が、これほどまでに考察されることが、
私は不思議でならない。
村上春樹を通して、人間の深みを探究していっているのは分かるが、
なぜ、村上春樹なのか?
現象として現れている以上、理由はあるのだろう。
私は、村上春樹ではなく、その理由を探究していきたい。
本題...
まず、あらすじ(私解釈)から。
(注:ラストまで書いていますので、興味のある方だけ、反転させてお読みください。)
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一九七〇年の夏、海辺に近い故郷に帰省していた大学生の"僕"は、
友人の鼠とジェイズ・バーで厭世的な会話をしながらビールを飲むという日々を送っていた。
ある日、僕はジェイズ・バーの洗面所で小指のない女性と出会う。
真面目で"可哀想な"彼女と接するうちに、僕は昔出会った女性たちを思い出していく。
僕が三番目に寝た女性は雑木林の中で首を吊って死んだ。
小指のない女性は最初、頑なに心を閉ざしていたが、次第に打ち解けていく。
そんな中、彼女は旅行に行くと嘘をつき、堕胎をする。
彼女のお腹にいた子の父親は鼠らしい。
久しぶりに会った僕と彼女は"何も"せずに抱き合いながら一晩を過ごした。
彼女と出会ってから18日後、僕はジェイズ・バーと鼠と彼女を残して東京に戻っていった。
それから8年後、僕は結婚し、鼠は小説を書いている。
小指のない女性と僕は二度と会えなかった。
彼女が今、どこで何をしているか、僕は知らない。
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この小説は、生と死の狭間をさまよう主人公"僕"が語る長い長いジョークだ。
僕や鼠、ラジオのアナウンサーに代表される、この小説の男性像は、
「享楽的、不真面目、ロマンチスト」。
対照的に女性像は、
「苦悩、真面目、リアリスト」。
小説の中で、海の真ん中でビールを飲む男性と苦しみ泳ぎ続ける女性の物語があるが、
海とは「心」を表しているのだと思う。
男性は問題を解決するために何もせず、ただ享楽に耽るけれど、
女性は悩み苦しみ、ときには自殺という手段もとる。
このような男女の相反する精神的志向性と「生死」を結びつけて、
男性は「死をもたらし、生を望む生き物」として、
女性は「生をもたらし、死を望む生き物」として、描かれていると感じた。
村上作品では、この構造が基軸となっているのではないだろうか。
命を越えた霊性は風のように流れてゆき、
「男女」や「生死」といった、二分されたものも、やがては一つとなる。
著者のそんな想いを私は感じとった。
ありがとうございました。