からだは星からできている/佐治 晴夫

読んだ本:『からだは星からできている』
著者:佐治 晴夫
出版社:春秋社
読んだ日:2010/1/27
ページ数:243頁
まとめ:
ある二人の会話...
A : 無限とは、どういうことか知っているかね?
B : あぁ、知っているよ。
A : では、どのくらいの長さなんだい?
B : とってもとっても、長いんだ。気が滅入るくらいね。
A : そういうことだ。
上の会話を何かの本で読んだ憶えがあるのだけれど、
何で、読んだのか忘れてしまった...
(ご存知の方がいましたら、コメントください。)
この会話を読んだとき、矛盾しているのでは? と思いながらも、
美しい問答だな...と感銘を受けたのを憶えている。
無限とは、限りがないこと。
限りがないのだから、長さなんてないはず。
無限なのだから。
でも、無限は長い。
たしかに長い、と感じる。
しかし、無限には距離も大きさもない。
だから、長いと感じるのおかしい。
長さや奥行きを感じた時点で、それは無限ではなくなってしまう。
でも、私も、会話の二人のように、無限を長いと感じる。
まるで、終わりがある有限のように。
もしかして、無限とは人間の次元では想像もつかないものなのではないだろうか。
私には、無限が想像できない。
というより、頭で想像した無限は、
すでに無限ではなく有限に収束してしまっているから。
つまり、人間には無限はつかみ取れないのである。
ドイツの数学者カントールによって証明された「無限」の性質を紹介したい。
(『からだは星からできている』から一部要約)
---------------------------------
自然数の列が十個あるとする。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
上記の自然数を偶数と奇数に分別する。
偶数 = 2 4 6 8 10
奇数 = 1 3 5 7 9
このように分けた場合、偶数の数も奇数の数も、
自然数の数より少なくなるのは当然のことである。
つまり、5(偶数) = 5(奇数) < 10(自然数) となるわけだ。
しかし、自然数が無限に続くとすれば、
それに対応する偶数の列も無限に続くことになる。
つまり、自然数と偶数の数が同じになってしまうのだ。
言い換えれば、
自然数の一部分であるはずの偶数の数が、自然数と同じになる、ということ。
これにより、「部分の大きさと全体の大きさは同じになる」という結論が得られる。
部分の大きさと全体の大きさは同じである、というのが「無限」の世界なのである。
---------------------------------
部分が全体と同じ大きさになる、「無限」という世界。
なんて魅力的なんだろう。
もし、「無限」という世界があるのならば、
宇宙も「私」も神もイコールで結ばれるのではないだろうか。
人間の身体は小さい。
けれど、この小さな身体は、大きな宇宙を内包している。
そして、人間とは、神の一部であり、神の全体なのかもしれない。
「無限とは、宇宙であり、自分自身であり、神である。」
おかしな話だけれど、そういう結論に至った。
本題...
“ 宇宙 ”
宇宙を表す “ 宇宙 ” というこの言葉。
中国の古典『淮南字』では、明確に「宇宙」が定義されている。
まず “ 宇 ” とは、
「四方上下」のこと。自分をとりまく周り、前後左右上下のこと。
つまり、地球も含めた、「空間」全体のことを意味する。
次に “ 宙 ” とは、
「住古来今」のこと。
「住古」とは、過ぎてしまって古くなったもの。
「来今」とは、今から来るもの。
つまり、「住古来今」とは、「時間」を意味する。
(以上、著書より要約)
すなわち、“ 宇宙 ” という言葉は、 「空間と時間」全体を表している。
個人的な解釈としては、
「時間」とは「記憶」だと思うので、
宇宙とは、「記憶を内包する空間」なのではないかと思っている。
宇宙ほど魅力的なものはない。
人間は太古の昔から宇宙の神秘さに魅了され、
神話で宇宙や宇宙の始まりを描いてみたり、
望遠鏡で天体を眺めたり、
あげくの果てには、地球から飛び出し、真っ暗闇に身を沈めた。
人間は、宇宙に神秘を感じ、全てを知りたいと欲する。
しかし、人間がどんなに足掻いても、宇宙はその全貌を表すことはないだろう。
全貌が見えてしまったら、それは宇宙ではなくなる。
全てが見えないから、知りたい。
だから、宇宙は宇宙なのだと思う。
魅力的すぎる。
そんな宇宙に魅了された少年が、純粋な子供の心をもったまま大人になったのが、
著者の佐治 晴夫さん。
元NASA客員研究員で、E.T.(地球外知的生命体)探査にも関与したらしい。
今は、ピアノやパイプオルガンを自ら弾いて、
宇宙論の講演を各地で行なっている。
宇宙科学から数学、美術学、国文学、音楽...
多儀にわたる学問への見識と嗜みには目を見張るものがあった。
この本では、
宇宙、
神話の宇宙観、
「生」と「死」、
無限、
自灯明と法灯明、
日本の宗教のおおらかさ、
などについて、
科学者らしからぬ哲学的な情緒性を含みながら、
本来ならば、難しすぎて理解し得ないような事柄を
とってもわかりやすく説明してくれている。
ところどころに、まど・みちおさんや金子みすゞさんなどの詩が載せられており、
今まで、ただ単に読んでいた詩が、
著者の思想とともに解説され、詩の世界が大きく広がった。
詩の楽しみ方がわかった気がする。
それにしても、著者の表現はわかりやすくて、おもしろい。
中でも印象的だったのが、これ。
(以下、一部要約)
-------------------------------------
丸い食卓に数人の人たちが食事を楽しもうとしている場面を想像してみる。
ナイフやフォークは規定の位置に置かれているので、
どれが自分のであるかは一目瞭然である。
しかし、自分から見て、水が入ったコップは左右対称に置かれていて、
どちらが自分のなのか判別に困って、手が出せない状況にあるとする。
そこで、ある人が思い切って、自分の左側にあるコップに手を出したとすれば、
その瞬間に、他の人も、自分のコップは、自分から見て左側にあるものということが
わかり、全ての人のコップの所属がハッキリする。
つまり、食事が始められるというわけである。
-------------------------------------
以上の例話によって、宇宙誕生の際の「ゆらぎ」による「ずれ」が、
ものごとを新しいステージへと誘うことを表している。
「何もない」ところに、「ある一撃」が加えられて、
「ゆらぎ」が生じ、宇宙は誕生した。
宇宙誕生のきっかけとなった、「ある一撃」が、
何(者)によって与えられたかは、分からないけれど、
何(者)かによって加えられたのは確かである。
それを著者は、「唯一の“ 神の意思 ”」または、「自然の摂理」と言っている。
誰が、最初に左側のコップに手を出したのか、
きっとそれは、永遠に分からないことなのかもしれない。
でも、それが「神」だとすると、私はもう屈服するしかない。
しかし、人間である「私」も、その一部であり、全体であるとすれば、
「私」は、なんて凄い存在なんだろうと思う。
それが真であり、
本当は皆、そのことを忘れているだけかもしれない。
心臓に手を当てて、止まれと命じても、止まらない。
私は自分の力で生きているのではなく、
何(者)かによって、生かされているのだ。
閉じ込められた身体の中で、我々は生かされ、いずれは死んでゆく。
宇宙の歴史から見たら、とてつもなく短い、この一生の間に、
我々は自由なる意思をもってして、色々なことを体験し、感じ、思う。
それら記憶を、また宇宙に持ち帰るのかもしれない。
つまり、有限から無限の世界へと帰するのだ。
この本を読んで、そんな考えが浮かんだ。
最後に、書中に載せられている、ある一つの詩を原詩とともに紹介したい。
「あしあと」と呼ばれるこの詩は、いろいろなバージョンがあるが、
もともとは、Margaret . F . Powersさんというカナダ人女性によって書かれた詩である。
それが、人から人へと口伝され、広まったもの。
かなり有名な詩らしいが、私はこの詩を、昨日初めて知り、かなりk........(略)
想像の自由性を保つために、あえて解説や感想は省きます。
(以下、抜粋)
--------------------------------------------
「私」は夢の中で神さまとともに、なぎさを歩いています。
「私」は、夜空に映し出された人生のさまざまな場面を見ます。
そこにはすべて、二人分の “ あしあと ” が残されていました。
“ あしあと ” のひとつは自分のもの、
もうひとつは、いつでも寄り添ってくれる神さまのものです。
やがて「私」にとって、いちばん辛く悲しい、人生の最後の光景が映し出されます。
ところが、振り返ると砂の上には一人分の “ あしあと ” しかありません。
「私」は心を乱して、神さまに尋ねます。
「いちばんあなたを必要としたときに、
なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
神さまは、ささやきます。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
・・・あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
(原詩)
FOOTPRINTS
One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.
When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.
This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
"Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I'm aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don't understand why, when I needed You most,
You leave me."
He whispered, "My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you."
ありがとうございました。




読んだ本:『からだは星からできている』
著者:佐治 晴夫
出版社:春秋社
読んだ日:2010/1/27
ページ数:243頁
まとめ:
ある二人の会話...
A : 無限とは、どういうことか知っているかね?
B : あぁ、知っているよ。
A : では、どのくらいの長さなんだい?
B : とってもとっても、長いんだ。気が滅入るくらいね。
A : そういうことだ。
上の会話を何かの本で読んだ憶えがあるのだけれど、
何で、読んだのか忘れてしまった...
(ご存知の方がいましたら、コメントください。)
この会話を読んだとき、矛盾しているのでは? と思いながらも、
美しい問答だな...と感銘を受けたのを憶えている。
無限とは、限りがないこと。
限りがないのだから、長さなんてないはず。
無限なのだから。
でも、無限は長い。
たしかに長い、と感じる。
しかし、無限には距離も大きさもない。
だから、長いと感じるのおかしい。
長さや奥行きを感じた時点で、それは無限ではなくなってしまう。
でも、私も、会話の二人のように、無限を長いと感じる。
まるで、終わりがある有限のように。
もしかして、無限とは人間の次元では想像もつかないものなのではないだろうか。
私には、無限が想像できない。
というより、頭で想像した無限は、
すでに無限ではなく有限に収束してしまっているから。
つまり、人間には無限はつかみ取れないのである。
ドイツの数学者カントールによって証明された「無限」の性質を紹介したい。
(『からだは星からできている』から一部要約)
---------------------------------
自然数の列が十個あるとする。
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
上記の自然数を偶数と奇数に分別する。
偶数 = 2 4 6 8 10
奇数 = 1 3 5 7 9
このように分けた場合、偶数の数も奇数の数も、
自然数の数より少なくなるのは当然のことである。
つまり、5(偶数) = 5(奇数) < 10(自然数) となるわけだ。
しかし、自然数が無限に続くとすれば、
それに対応する偶数の列も無限に続くことになる。
つまり、自然数と偶数の数が同じになってしまうのだ。
言い換えれば、
自然数の一部分であるはずの偶数の数が、自然数と同じになる、ということ。
これにより、「部分の大きさと全体の大きさは同じになる」という結論が得られる。
部分の大きさと全体の大きさは同じである、というのが「無限」の世界なのである。
---------------------------------
部分が全体と同じ大きさになる、「無限」という世界。
なんて魅力的なんだろう。
もし、「無限」という世界があるのならば、
宇宙も「私」も神もイコールで結ばれるのではないだろうか。
人間の身体は小さい。
けれど、この小さな身体は、大きな宇宙を内包している。
そして、人間とは、神の一部であり、神の全体なのかもしれない。
「無限とは、宇宙であり、自分自身であり、神である。」
おかしな話だけれど、そういう結論に至った。
本題...
“ 宇宙 ”
宇宙を表す “ 宇宙 ” というこの言葉。
中国の古典『淮南字』では、明確に「宇宙」が定義されている。
まず “ 宇 ” とは、
「四方上下」のこと。自分をとりまく周り、前後左右上下のこと。
つまり、地球も含めた、「空間」全体のことを意味する。
次に “ 宙 ” とは、
「住古来今」のこと。
「住古」とは、過ぎてしまって古くなったもの。
「来今」とは、今から来るもの。
つまり、「住古来今」とは、「時間」を意味する。
(以上、著書より要約)
すなわち、“ 宇宙 ” という言葉は、 「空間と時間」全体を表している。
個人的な解釈としては、
「時間」とは「記憶」だと思うので、
宇宙とは、「記憶を内包する空間」なのではないかと思っている。
宇宙ほど魅力的なものはない。
人間は太古の昔から宇宙の神秘さに魅了され、
神話で宇宙や宇宙の始まりを描いてみたり、
望遠鏡で天体を眺めたり、
あげくの果てには、地球から飛び出し、真っ暗闇に身を沈めた。
人間は、宇宙に神秘を感じ、全てを知りたいと欲する。
しかし、人間がどんなに足掻いても、宇宙はその全貌を表すことはないだろう。
全貌が見えてしまったら、それは宇宙ではなくなる。
全てが見えないから、知りたい。
だから、宇宙は宇宙なのだと思う。
魅力的すぎる。
そんな宇宙に魅了された少年が、純粋な子供の心をもったまま大人になったのが、
著者の佐治 晴夫さん。
元NASA客員研究員で、E.T.(地球外知的生命体)探査にも関与したらしい。
今は、ピアノやパイプオルガンを自ら弾いて、
宇宙論の講演を各地で行なっている。
宇宙科学から数学、美術学、国文学、音楽...
多儀にわたる学問への見識と嗜みには目を見張るものがあった。
この本では、
宇宙、
神話の宇宙観、
「生」と「死」、
無限、
自灯明と法灯明、
日本の宗教のおおらかさ、
などについて、
科学者らしからぬ哲学的な情緒性を含みながら、
本来ならば、難しすぎて理解し得ないような事柄を
とってもわかりやすく説明してくれている。
ところどころに、まど・みちおさんや金子みすゞさんなどの詩が載せられており、
今まで、ただ単に読んでいた詩が、
著者の思想とともに解説され、詩の世界が大きく広がった。
詩の楽しみ方がわかった気がする。
それにしても、著者の表現はわかりやすくて、おもしろい。
中でも印象的だったのが、これ。
(以下、一部要約)
-------------------------------------
丸い食卓に数人の人たちが食事を楽しもうとしている場面を想像してみる。
ナイフやフォークは規定の位置に置かれているので、
どれが自分のであるかは一目瞭然である。
しかし、自分から見て、水が入ったコップは左右対称に置かれていて、
どちらが自分のなのか判別に困って、手が出せない状況にあるとする。
そこで、ある人が思い切って、自分の左側にあるコップに手を出したとすれば、
その瞬間に、他の人も、自分のコップは、自分から見て左側にあるものということが
わかり、全ての人のコップの所属がハッキリする。
つまり、食事が始められるというわけである。
-------------------------------------
以上の例話によって、宇宙誕生の際の「ゆらぎ」による「ずれ」が、
ものごとを新しいステージへと誘うことを表している。
「何もない」ところに、「ある一撃」が加えられて、
「ゆらぎ」が生じ、宇宙は誕生した。
宇宙誕生のきっかけとなった、「ある一撃」が、
何(者)によって与えられたかは、分からないけれど、
何(者)かによって加えられたのは確かである。
それを著者は、「唯一の“ 神の意思 ”」または、「自然の摂理」と言っている。
誰が、最初に左側のコップに手を出したのか、
きっとそれは、永遠に分からないことなのかもしれない。
でも、それが「神」だとすると、私はもう屈服するしかない。
しかし、人間である「私」も、その一部であり、全体であるとすれば、
「私」は、なんて凄い存在なんだろうと思う。
それが真であり、
本当は皆、そのことを忘れているだけかもしれない。
心臓に手を当てて、止まれと命じても、止まらない。
私は自分の力で生きているのではなく、
何(者)かによって、生かされているのだ。
閉じ込められた身体の中で、我々は生かされ、いずれは死んでゆく。
宇宙の歴史から見たら、とてつもなく短い、この一生の間に、
我々は自由なる意思をもってして、色々なことを体験し、感じ、思う。
それら記憶を、また宇宙に持ち帰るのかもしれない。
つまり、有限から無限の世界へと帰するのだ。
この本を読んで、そんな考えが浮かんだ。
最後に、書中に載せられている、ある一つの詩を原詩とともに紹介したい。
「あしあと」と呼ばれるこの詩は、いろいろなバージョンがあるが、
もともとは、Margaret . F . Powersさんというカナダ人女性によって書かれた詩である。
それが、人から人へと口伝され、広まったもの。
かなり有名な詩らしいが、私はこの詩を、昨日初めて知り、かなりk........(略)
想像の自由性を保つために、あえて解説や感想は省きます。
(以下、抜粋)
--------------------------------------------
「私」は夢の中で神さまとともに、なぎさを歩いています。
「私」は、夜空に映し出された人生のさまざまな場面を見ます。
そこにはすべて、二人分の “ あしあと ” が残されていました。
“ あしあと ” のひとつは自分のもの、
もうひとつは、いつでも寄り添ってくれる神さまのものです。
やがて「私」にとって、いちばん辛く悲しい、人生の最後の光景が映し出されます。
ところが、振り返ると砂の上には一人分の “ あしあと ” しかありません。
「私」は心を乱して、神さまに尋ねます。
「いちばんあなたを必要としたときに、
なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
神さまは、ささやきます。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
・・・あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
(原詩)
FOOTPRINTS
One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.
When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.
This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
"Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I'm aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don't understand why, when I needed You most,
You leave me."
He whispered, "My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you."
ありがとうございました。